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資料 三笠宮崇仁親王著 「綿鉄集(政略之部)」

ほんじつは文藝春秋 2011年2月号に載った 三笠宮崇仁親王著 「綿鉄集(政略之部)」の要点を書くことにします。

今から六十八年前、太平洋戦争中に書かれた「支那事変に対する日本人としての内省(幕僚用)」という論文の付録だそうで、内容は支那における日本軍人は内省しないといけないという趣旨です。

こういう風に道理が分かっている人がいたにも関わらずあの頃の日本はどうして間違いを犯したのかと嘆息しましたがそれは一瞬。今の日本だって似たりよったりの間違いを犯している日本人、近視眼的で単眼的な見方から出ようとしない日本人がゴマンといます。日本がふたたびおろかな過ちをおかさないための指針にもなる資料だと思います。

三笠宮といわれてもイメージが沸かない人がおられると思いますので次頁にウィキペディア・三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)を貼っておきます。

略歴をみると論文は二十八、九歳のときに書かれたことがわかります。日本の若い方々におかれては先輩たちが過った道を歩んでいると感じたらどんどん発言され、正しい方向を目指されるよう期待します。ご自身の未来がかかっているのですから。


綿鉄集(政略之部) 要点:

昭和十九年一月 支那派遣軍総司令部 

中国人に接する日本人の心得は多いが本稿はそのうち基礎的で重要と考えたものを書く。これを基礎として中国の地理、気象、歴史、中国人の性格、風俗、習慣、言語等を探求体得のうえ公私における中国人との付き合いに過ちなからんことを期せられたい

一 日本と英米の対華政策の差異

中国人を水にたとえると・・・
米英人は綿である。肌触りは微温的であるが一杯水を吸い込む
日本人は鉄である。絶対的な圧迫を感じせしめるが付着する水は数滴にすぎない

二 日華経済提携の原則

(イ) 中国を鶏にたとえると・・・
日本の経済政策は鶏の生存を脅かすばかりではなく、卵を生まぬ先から、毛をむしりとるようなことをする

(ロ) 中国人が煙草盆をだすと・・・
米英人は煙草は吸うだけである
日本人は煙草をみな吸った上に煙草盆を持っていって面子をだいなしにする

三 「官」と「民」

日本は「官主民従」であり、法令規則で民を動かせる
中国は「民主官従」であり、法令規則で民を動かせない

中国は官と民とは昔から一体化していない。これを知るか知らないかで欧米と日本の対華関係に差異が生じている

欧米各国の民と中国の民とは連携が密にできている。中国の民は中国の官から搾取されても欧米の民から利益をもらっている。よって欧米の官が中国の官を搾取しても中国の民は欧米を怨まない

日本の民は中国の民を搾取している。よって日本は官も民も中国の民の怨恨の対象となる

四 中国に対する支援協力の骨

猿芝居の骨にたとえる

観衆が猿の芸に夢中になり猿の主人(親方)に気がつかないのが良い主人である。主人が自ら舞台に飛び出して踊ったり、見得を切ったりしたら、観衆は逃げてしまう

五 日本の対華政策の不安定性

日本の対華政策は常にぐらついている

六 病人と医者

中国を病人、日本を医者にたとえる
この医者は病人の言い分を聞かず独り合点して薬を盛ること十四年。病状は悪化している

慎重に病原を診察し、病人の話を聞き、処方し、薬をあんばいすべきなのに出たとこ勝負の治療で臨むから病人は治らない

七 政治家と事務家

日本人は事務家、中国人は政治家である

日本の政治は役所の机の上の公文書の活字から生まれ、中国の政治は私邸の机の上の麻雀の牌から生まれる

日本の官僚が事務家の本性を発揮したのでは中国人は遠ざかる。日本の優秀な官吏ほど嫌われる

八 中国向けの政治家

中国官僚社会の特性を良く知り、しかもこれには深く触れない、中国人に親しまれる者を配すること

中国人の美点を探して中国との協力をはかること。美点の例:
イ 情誼的で人情を重んずる
ロ 面子を尊ぶ
ハ 政治的で常識に富む
二 和平的で官僚の臭みがない
ホ 理屈より実際的である
へ みだりに他人の事に容喙しない

九 中国向け宣伝

飛行機で「投降票」とか「投降勧告文」をばらまけば金の為に動く兵隊も面子がたたないから結束を固める。「和平票」か「敦睦(とんぼく)勧告文」なら効果がある

十 「引」と「押」
日本人は引き、中国人は押す

中国では、劉備が孔明にしたように、野に隠れた賢人、義人も三顧の礼で押し出さないと出てこない

日本人は司令部か役所に傲然と座って呼び出そうとするから碌な者しか出てこない


「綿鉄集」のあとに「解説」があるので二、三紹介します

解説者は三笠宮殿下にインタビューした中野邦観氏(読売新聞社嘱託・尚美学園大学教授)で殿下の思いをこう書いています:

三笠宮殿下は、昭和天皇に会ったこともない将校たちが何かといえば「これが陛下の大御心(おおみごころ)だ」といっていたことに苦言を呈した

支那事変以降、日本軍が中国で暴虐行為、略奪、強姦、良民の殺傷、放火などしたことが中国人の抗日になった原因だ

日本と中国は兄弟といわれてきたが、夫婦にならなければいけない

普段は「日華」「日中」でもいいが、せめて中国人と話すときだけでも「中日」というべき

日本軍が占領していた主要な場所はほとんど回ったが、捕虜の虐待、虐殺にショックを受けた。満州の日本部隊が広い原野に中国人捕虜を杭にくくりつけ、そこに毒ガスを放射する実写フィルムも見たが目を覆いたくなった。青年将校が生きている捕虜を目標に銃剣術の訓練をすることが新兵の
根性を鍛えると自慢していたときには、陸軍士官学校の教育はなんだったのかという会議に駆られた

民族性の相違から、日本人が中国人のためになると思ってやった善意の施策が、中国人にとって迷惑至極だったり、我慢できなかった


なお 三笠宮殿下のインタビュー、「支那に対する日本人としての内省」、付録文書「綿鉄集」、他からなる「闇に葬られた皇室の軍部批判」という特集が「THIS IS 読売」 1994年8月「戦後50年特大号」にあるそうです
 

三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年12月2日 - )は、日本皇族歴史学者(古代オリエント史専攻)。大正天皇貞明皇后の第四皇子。今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位親王皇室典範における敬称殿下お印は若杉(わかすぎ)。勲等大勲位皇位継承順位第5位。

現在存命中の皇族の中では最年長者であり、「三笠長老」の敬称を奉られることもある。「三笠宮」の宮号[1]は、1935年(昭和10年)12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市三笠山にちなんで命名された。

目次

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略歴 [編集]

1915年大正4年)12月2日、大正天皇と貞明皇后の末子として誕生。高松宮宣仁親王から10歳も年下(昭和天皇とは14歳の年の差)の末っ子のため大正天皇と貞明皇后の意向で3人の兄宮と違って御所で育てられた。

学習院初等科中等科を経て、1936年(昭和11年)に陸軍士官学校(48期)を卒業。士官学校在学中の1935年(昭和10年)の成年式に伴い、三笠宮の宮号を賜り、同時に大勲位に叙せられる。習志野陸軍騎兵学校を経て、陸軍大学校を卒業する。陸軍士官学校時代には、辻政信が願い出て教育を担当した。辻とは後に同じ支那派遣軍で勤務している。

1941年(昭和16年)10月22日高木正得子爵の二女百合子と結婚。鄂凌堂ら三男二女をもうけた。

太平洋戦争開戦後、1943年1月から翌1944年1月まで、コードネーム「若杉参謀大尉」(姓は印にちなんで作られた)として南京支那派遣軍総司令部に勤務。総司令部は着任に際して部隊内に通達を出し、勤務中の待遇及び食堂での食事の際の礼遇について周知している。若杉の正体は秘匿されていたため、部内にはかなり後期まで、若杉参謀が三笠宮であることを知らない者も多かった。支那派遣軍勤務中には、中国語のエキスパートであった通訳の木村辰男から中国語と中国事情を学んでいる。その後大本営参謀に転出。

帰国後、戦争終結を模索し、同僚の津野田知重少佐らと東條内閣打倒のクーデター計画を立てるが、東條英機暗殺、主戦派数百名大量粛清などその過激な内容に躊躇し、自ら憲兵隊に通報。津野田らは逮捕され、クーデター計画は未遂に終わった。成功時には支那派遣軍総司令官の職につく予定であったと言われる(津野田事件)。

事件への関与は明白であったが不問に付され、1944年9月、願い出て陸軍機甲本部付に左遷、陸軍少佐で終戦を迎える。津野田はじめ他の将校も軽い処分で済まされた。こうした経緯があったためか、1945年4月に長兄・昭和天皇に対面を願い出た時には「何を言うつもりなのかな」と天皇が不安がったとも言われる。

戦後の1947年(昭和22年)4月に東京大学文学部の研究生となり、歴史学を学んだ(専攻はオリエント史)。1955年(昭和30年)東京女子大学で講師として教育に当たったほか、青山学院大学天理大学拓殖大学でも教壇に立ち、日本オリエント学会の会長も務めた。また、紀元節に関しては、科学的根拠に欠けるとして復活に批判的であった。1991年にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年6月にはロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。

戦後、民心の荒廃を憂い、国民にレクリエーションが必要との考えから、百合子妃とともに、ダンスの普及にも力を入れた。

2009年現在、今上天皇の叔父、すなわち昭和天皇香淳皇后の兄弟姉妹の中で存命しているのは香淳皇后の弟である東伏見慈洽と三笠宮のみである。

子女 [編集]

1950年頃、百合子妃と貉卞眇堂Α鄂凌堂ΑΦ洪凌堂

高松宮と秩父宮は子供がいないまま生涯を閉じたのに対し、三笠宮は昭和天皇同様に多くの子供に恵まれた。

昭和期には三笠宮家が多数の親王を擁していたことから、皇族の人数と皇室費の増加が懸念され、皇族の範囲を狭める形での皇室典範改正が検討されたことがある。しかし、いずれの親王も男子には恵まれず、現行制度では将来的に三笠宮の系譜は絶える見込みである。

孫が9人、曾孫は3人いる。存命の皇族の中で曾孫がいるのは三笠宮夫妻のみ。

人物 [編集]

  • 幼少時より文才を認められ、「童謡の宮さま」と呼ばれた。また1957年に百合子妃と『句集 初雪』(新樹社、著名は三笠宮若杉・ゆかり)を出した。
  • 日本レクリエーション協会総裁なので、非売品で『レクリエーション随想録』を1998年に出している。
  • 古代オリエント史、特にアナトリア考古学を専門とする歴史学者として知られ、長らく東京女子大学などで古代オリエント史の講義を担当、「宮さま講師」と通称された[2]
  • 東京都三鷹市に、財団法人中近東文化センター設立にも尽力した。また同センター総裁として、トルコ共和国でのカマン・カレホユック遺跡の発掘調査をすすめ、最近では、現地における常設の研究機関アナトリア考古学研究所の建設を進めている。
  • 陸軍時代支那派遣軍に在籍していた関係から、日中国交回復前夜には訪中も招請された。語学にも堪能であり、流暢な中国語ヘブライ語を操る。学術関係の公務において他の皇族と同席する機会も多い[3]

逸話 [編集]

  • 浪花節を好み、戦前宮邸には数百枚に及ぶ浪花節のレコードが秘蔵されていたという。このコレクションは空襲で焼失している。
  • 軍隊時代は一般の将校とまったく同じ待遇をされることを喜び、軍隊生活を非常に楽しんだとされる。また日中戦争当時、進駐先で「皇軍が皇軍たり得ておらずその名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、自らの一挙一動、果たして大御心に悖る事無きかを自らに問うこと」と部下達を叱りつけた事もある。居並ぶ一同は三笠宮の叱咤に言葉がなかったという[4]
  • 格子なき牢獄と皇室制度を批判と取れる発言をしたとされるが、長兄である昭和天皇に然るべき礼を尽くすこと、皇太子との身分差などについて十分理解したと発言したことがある。
  • 日中国交回復前の1970年代前半には、結局実現しなかったが訪中が打診されたことがある。
  • 戦後間もない頃ブラジルに移民した日本人の間で、日本の敗戦を認めた「負け組」とそれを認めない「勝ち組」に分裂し、抗争問題に発展していた。移民五十年祭を開く際も勝ち組は非協力的であったが、皇族である三笠宮が式典に出席するとわかると事態は一変、双方の協力体制が布かれ、以後和解に進んでいった。

「三笠宮双子説」をめぐって [編集]

河原敏明は、三笠宮が京都華族山本實庸子爵の末子として育てられた奈良円照寺門跡山本静山尼(1916-1995年)が、実は三笠宮とは双子の妹(絲子)だったと主張し、1979年(昭和54年)に『週刊大衆』に掲載された。宮内庁側は無視していたが、1984年(昭和59年)1月になって再度取り上げられ、今度は大きな話題となったため、同年1月20日、この説を全面的に否定する声明を発表した。河原に対し、山本静山尼本人は直接「デマです」と否定し、また河原に有力証言者とされた末永雅雄は、証言そのものの存在を否定した[5]

河原の皇室が双子を忌み嫌うという主張に関しては、近代以降も、伏見宮家の敦子女王・知子女王姉妹(1907年生)が双子で、共に成長した事例があり、宮内庁も反証として挙げた。

なお、三笠宮夫妻も、後年になって『母宮貞明皇后とその時代』(工藤美代子著書、中央公論新社)中のインタビューで、双子説を否定した。

著書 [編集]

単著 [編集]

  • 『帝王と墓と民衆 - オリエントのあけぼの(付・わが思い出の記)』(カッパブックス:光文社、1956年)
    • 巻末に附載された「わが思い出の記」は、1956年までの自叙伝。
  • 『乾燥の国 - イラン・イラクの旅』(平凡社、1957年)
  • 『古代オリエント史と私』 (学生社、1984年)
  • 『古代エジプトの神々 - その誕生と発展』(日本放送出版協会、1988年)
  • 『文明のあけぼの - 古代オリエントの世界』(集英社、2002年)
  • 『わが歴史研究の七十年』(学生社、2008年)

訳書 [編集]

  • ジャック・フィネガン、三笠宮崇仁・赤司道雄・中沢洽樹訳
    『古代文化の光 - ユダヤ教とクリスト教の考古学的背景』(
    岩波書店、1955年、増補版1966年)
  • ジャック・フィネガン、三笠宮崇仁訳 『聖書年代学』(岩波書店、1967年)
  • ジャック・フィネガン、三笠宮崇仁訳 『考古学から見た古代オリエント史』 (岩波書店、1983年、復刊2004年)

編著・監修書 [編集]

  • 三笠宮崇仁編『日本のあけぼの - 建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)
  • 三笠宮崇仁編『生活の世界歴史1』(河出書房新社、のち河出文庫、1991年)
  • 岡田明子・小林登志子著、三笠宮崇仁監修『古代メソポタミアの神々 - 世界最古の「王と神の饗宴」』(集英社、2000年)

脚注 [編集]

  1. ^ 内閣告示や宮内庁告示等の表記では、皇族に宮号が冠されることはなく(「皇太子」を除く)、それらの告示が掲載される官報では、「崇仁親王」と表記される。一方、同じ政府による表記でも、国民一般向けのウェブページなどでは、宮号を用いて表記される。皇室典範に定める敬称は殿下
  2. ^ 日本オリエント学会編で、『オリエント学論集 三笠宮殿下還暦記念』(講談社、1975年)と『オリエント学論集 三笠宮殿下古稀記念』(小学館 1985年)が、大著で『三笠宮殿下米壽記念論集』(刀水書房、2004年)が刊行されている。
  3. ^ 非売品で作家陳舜臣と「歴史清談  古代オリエント/中国日本東北」河北新報社、1987年がある
  4. ^ 小川哲雄『日中戦争秘話』 原書房。小川は当時陸軍将校、のち汪兆銘政権で軍事顧問兼経済顧問補佐官
  5. ^ 1984年1月20日 朝日新聞「"三笠宮さまは双子"説騒ぎ 宮内庁、5年後の否定」

関連項目 [編集]

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中国人の大陸の考え方と
日本人の島国の考え方とは
大きな違いがありますよね。
その、違いを理解しながら
中国の方と付き合っていく
必要がありますね。
| ちぎ | 2011/01/15 6:20 AM |










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