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雨あがりののぞきみ 5
 


戦争でコテンパンにやられた日本はほどなくめざましい経済発展をとげましたが、そのきっかけは朝鮮戦争であるという実感がおのまにあります

日本が朝鮮半島で戦う国連軍御用達の軍需工場となり、そのおこぼれがおのまの父にも及んでいたことを知ったのは中学生のときでした

着の身着のまま、おそらくは一文なしで満州から引き揚げてきたであろうおのま一家(引き揚げ時は五人、戦後六人となる)は四国の親戚の家、横浜の知人の家、横浜の借家、郡山の借家と転々としましたが、おのまが中学生になった頃に我が家の景気は急によくなり新築の家に引っ越しました

普段は無口の父ですが、無借金で郡山に家を建てた頃は機嫌がよく、も一度戦争が起きたら良いと軽口をたたいたものです

父は満州時代の仲間とともに土木建築会社をつくり、福島県の南会津の山奥にある八総(やそう)鉱山というおもに銅を産出する鉱山の拡張工事を請け負ったのですが、朝鮮戦争のおかげで銅の需要が伸び、したがって父の会社も伸びたという次第でした


中学時代、夏休みに八総鉱山を訪ねたことがあります。会津若松から国鉄会津線を南へ下ったどんづまりの滝の原駅で父と会い、はて、それからどのくらい歩いたでしょうか。荒海山(あらかいさん)という山の中を黙々と歩いていく父の後を追いながら、大変なところで働いているんだなあと粛然たる気分になったものです

山奥に建てられた宿舎は安普請の建物でしたがそれでも雨風が吹き込んでくるような粗雑なものではなく、いま思うと実用派おのま好みの機能的な建物でした

夕食に出てきた焼き魚を旨い旨いと食べていたら、ぼうや、それはホッケという安魚だよと笑われたのを覚えています

おのまの記憶は敗戦直後あたり、満州の光景から始まっていますが、はじめの数年はろくすっぽ食べ物がなく菓子のたぐいは夢のまた夢、小学二年か三年の時にみた人形劇の中につやつやした饅頭が出てきて、ああいうものを食べてみたいと思ったことがあります

中学時代になると空腹との縁は切れていましたがそれでも食事はいたって簡素で、したがってホッケだろうがなんだろうが旨いものは旨いと感じたわけです。戦前のある時期まで旨いものを食べていたオトナはホッケイコール安魚という刷り込みがあるものだから旨いと感じなかったのではないでしょうか


おおいに脱線しました。本題は百合です

宿舎の中まで漂ってくる山百合の強い香りで頭が痛くなったのを覚えています

ウイキペディアの荒海山にこうありました:

山頂付近および尾根道は春から初夏にかけて、ショウジョウバカマイワカガミアズマシャクナゲヤマグルマが咲く。 
荒海山


そういえば父は庭にシャクナゲを植えていました。木も花もこじんまりとまとまっていて姿、色とも上品な風情でしたがあれは荒海山から持ってきたものだったのかもしれません。北バンクーバーのおのまの家にもシャクナゲが四本ありますが、いずれも大きくて上品とはいえません

ウイキペディアにヤマユリは出ていませんが、頭が痛くなるほどでしたからどこかに群生していたのだと思います

頭痛の記憶があるので百合の花は長年のあいだ苦手だったのですが、昨年の夏、どういう心境の変化なのか、百合を買って前庭に植えました

花が咲き、あのときと変わらぬ強い香りがそこいらじゅうに拡がりましたが、いまは頭が痛くなるということはありません

別の日にのぞきこんだところ花弁にたくさんの突起がありました




どんづまり時代の滝の原駅をみつけました



(出典:http://blogs.yahoo.co.jp/hanagon60/29356487.html

会津線は1986年に開業した野岩鉄道とつながり、それに伴って滝の原は会津高原に改名、2006年には会津高原尾瀬口に改名したそうです

ここまで書いてきて、おのまが父だったら、郡山より会津に家を建てたろうにと思いました。会津は城下町で郡山にくらべて落ち着いた風情があったと思います

若かりし頃の父の心情を思うに、会津の田舎に引き込む気分はなく、せめて東北線で東京とつながっている郡山にと思ったのではないでしょうか

やがて景気が変わり八総鉱山の仕事はなくなり、父は藤沢のゴルフ場開発の仕事に関わることになりますが、その話はまた別の機会にでも


八総鉱山の写真が載っているサイトをみつけました

当時の社宅だそうです:


(出典http://www5a.biglobe.ne.jp/~aji/

おのまの泊まった宿舎かもしれません


さらに探したところ八総鉱山の思い出を綴ったサイトがみつかり、そのなかに八総鉱山の植物一覧がありました

八総鉱山の植物

(28)ユウガギク、(29)ヤマシロギク、(30)フジバカマ、(31)サワギキョウ、(32)キキョウ、(33)ホタルブクロ、(34)ツリガネニンジン、(35)カラスウリ、(36)オミナエシ、(37)カワラハハコ、(38)オナモミ、(39)ノコギリソウ、(40)ノアザミ、(41)コウゾリナ、(42)エノコログサ、(43)キンエノコロ、(44)イヌビエ、(45)ホタルイ、(46)ツユクサ、(47)ヤマジノホトトギス、(48)トコロ、(49)ゼンマイ、(50)ワラビ、(51)ノビル、(52)ナズナ、(53)タンポポ、(54)アツモリソウ、(55)アケビ、(56)カラハナソウ、(57)ツリフネソウ、(58)アズマシャクナゲ、(59)カタバミ、(60)ツルウメモドキ、(61)キンミズヒキ、(62)ナギナタガヤ、(63)サイトウガヤ、(64)ヤマアワ、(65)イノコズチ、(66)ヤマハタザオ、(67)ネジバナ、(68)ヤマユリ、(69)イトスゲ、(70)ムギスゲ、(71)ウシクグ、(72)ススキ、(73)ヤマアワ、(74)オヒシバ、(75)カラスムギ、(76)ウシノケグサ、(77)スギナ、(78)ヤマムグラ、(79)コケオトギリ、(80)カニツリグサ、(81)フキ、(82)イチゴツナギ、(83)クサイチゴ、(84)アズマネザサ、(85)シシガシラ、(86)ヒエノシダ、(87)クリ、(88)サルナシ、(89)シラカシ、(90)ミズナラ、(91)コナラ、(92)クヌギ、(93)トチノキ、(94)コブシ、(95)ヒノキ、(96)ハイマツ、(97)ヒバ、(98)トウヒ、(99)ホオノキ、(100)ネコヤナギ、(101)ヤマウルシ

http://plaza.rakuten.co.jp/plexus/diary/200509100000/

おお・・・(68)ヤマユリ・・・・


八総鉱山
 

八総鉱山(やそうこうざん)は、かつて福島県南会津郡田島町および舘岩村(現南会津町)に所在した鉱山である。

 

目次

[非表示]

概要 [編集]

江戸時代末期にすでに採掘の記録があり、1876年(明治9年)の文部省による国内鉱物資源調査報告書「各府県金石試験記」にも記載されている。亜鉛硫化鉄を産出した。

操業史 [編集]

明治にはいってから地元住民が採掘を始めるが採算がとれず、古河財閥創始者の古河市兵衛が鉱業権を取得した。古河は前後して入手した足尾銅山で大成功をおさめたことから、八総鉱山の開発に本格的に着手することはなかった。

1906年(明治39年)に池上仲三郎が鉱業権を譲り受け、鉱山開発を行い、1919年(大正8年)の休山まで採掘、製錬を行った。1928年(昭和3年)久原鉱業に採掘権が移り、1933年(昭和8年)日本鉱業が所有し、日満鉱業の経営を経て、1946年(昭和21年)に休山した。

本格的な操業は終戦後で、住友金属鉱山1949年(昭和24年)に買収して翌年に開発に着手、旧舘岩村側の旧八総鉱山と旧田島町側の旧滝ノ原鉱山を通洞坑で結び、旧田島町側に選鉱場を設けた。以後主として銅山として経営され、ほかに鉛、亜鉛、硫化鉄を産出した。

最盛期は1956年(昭和31年)から1961年(昭和36年)までで、この期間の年間平均生産粗鉱量は約16万トンに達した。この時期の従業員は500名以上であり、家族を含めると約2,300名が居住し、田島町立八総鉱山小学校が設置される[1]ほどに栄えた。1970年(昭和45年)7月に終掘[2]し、9月に閉山した。その翌年、小学校も廃校となった。

現在 [編集]

その後、同社が休廃止鉱山坑排水管理事業として、中和場を設け、排水の水質管理を続け、現在は、金属鉱業等鉱害対策特別措置法に基づいて指定鉱害防止事業機関[3]が鉱害防止業務を実施している。現在、現地には、選鉱場跡地に稼動中の中和処理場があり、通洞坑跡、鉱滓沈殿池跡、選鉱機械の基礎コンクリート跡等が残る。コンクリート擁壁で整備された採鉱用の道路は、荒海山への登山道に利用され、小学校跡地はオートキャンプ場になっている。 

脚注 [編集]

  1. ^ 1950年12月に荒海村立滝ノ原季節分教場、1956年1月に田島町立荒海小学校八総分校、同年4月に独立した小学校となった。
  2. ^ 現地案内板では「昭和44年度下期末に操業停止」となっている。
  3. ^ 財団法人資源環境センター

周辺 名所・旧跡・観光スポット [編集]

参考文献 [編集]

  • 『田島町史 第3巻 通史袈畭紂戞1991年、田島町

関連項目 [編集]

| おのまのプロフィール | 植物 | 01:22 | comments(2) | trackbacks(0) |
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おのま様
 
 私の八総鉱山に関する記事を御覧くださりありがとうございました。

 おのま様のお父上の思い出の一部が、八総の山のシャクナゲやヤマユリに結びついていることをうかがい、子供時代に同地の植物を探索採集していた私にとって、なんだか嬉しくなりました。私の植物リストは、実際に私が採集したもので、その標本の一部は55年以上経た現在でも所持しております。

 ところで、おのま様の記事のなかで、いままで私が詳しく知らなかったことが書かれていました。もしおさしつかえなければ、情報をいただけないでしょうか。

 八総鉱山は、私の父が入山した昭和28年9月の時点では、まだ調査試掘の段階でした。父の調査によって、まもなく大鉱床にぶつかることが判明し、いよいよ鉱山町としてさまざまな工事が始りました。それが昭和29年以後のこと、30年から32年頃までがもっとも盛んな建築工事の時期でした。そのような工事は北海建設株式会社および鹿島建設株式会社が主体となっておこなっていました。両社の事務所は、鉱山事務所の近くにあり、また両社の社員や労働者の仮設住宅もひとまとまりになってその近くに建っていました。おのま様が中学の夏休みにお父上を訪問して宿泊したのは、おそらくその近辺だと推測します。(ちなみに、ホッケは北海建設の人たちにとっては、まさに北海道の魚でもっともお馴染みのものです。)
 私が知らなかったことは、両社のほかに、おのま様のお父上の会社もまた同様に建設に関わっていらしたということ。その会社の名称を教えていただけないでしょうか。

 じつは、私の父もすでに亡くなり、八総鉱山で働いていたかたがたも存命であれば90才前後で、正確な事実がつかみにくくなっております。私の回想記も、父が亡くなる直前に病床で聴き取ったものです。鉱山学的な見地から、鉱床の実体を知っていたのは社内で3人ほど。父がその一人だったわけです。

 ウィキペディアの記事も、素人記者が書いているのでしょう、必ずしも事実ではないこともあります。それをあえて訂正する意志は私にはありませんが、それとは別に、事実をなるべく詳しく記録しておきたいと思っているのです。

 おおしえ下さるなら幸いです。

山田維史
| 山田維史 | 2010/09/16 1:41 PM |

おのま様

 情報をありがとうございました。私にとってまったく新しい事実を知ることができました。

山田維史
| 山田維史 | 2010/09/18 2:41 PM |










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