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カイロの話 あとふたつ

五日前に「カイロでの考察」というタイトルを書いたときはふたつのことを書こうと思っていたのだが、昨日はひとつ書いて、それでおしまいだと思ってしまった。

もうひとつの話をほんじつ書くのだが、書こうとしたら、カイロではもうひとつ考えたことがあったのを思い出した。

ふたつ書くつもりでいたのがひとつになったり、みっつになったり・・・認知症のはじまりであろうか。

ひとつのことに集中していて他のことを忘れるのは今にはじまったことではない。大事なことを忘れてしまい、何かの拍子で思い出したのは良いが、すでに数年たっていたということもある。若い頃から認知症だったのかもしれない。

いまだって、このままあらぬ方向に走り出してカイロのことを忘れそうだ。


1975年10月某日。

M君の立派なアパートに泊まったのだが、水道から出てくる水が茶色だった。訊くといつもそうなので沸かして使っているという。

二日後、テヘランのホテルから国際部に、M君に浄化装置を送って欲しいというテレックスをだした。

大阪時代、琵琶湖の水を飲んでいたのだが、水質が悪く、水道の蛇口に小さな浄化装置をつけたことがある。今から思うとあれが良かったのかどうかはなはだ疑問である。いちどもカートリッジを替えなかった。取り替えるようになっていなかった。いまなら、カートリッジを簡単に替えることができるブリタがある。

気になってブリタでググッた。四十年まえからあるそうだ。でも1975年、すなわち35年前の日本でブリタを見た記憶はない。


三ヵ月後、日本にもどり調べたら、国際部はM君に浄化装置を送っていなかった。上司に訊くとそんな面倒なことをするなといわれた。

数千円でできることだが、予算を取るための稟議(りんぎ・ひんぎ)を書かないといけない
他にも水の悪い地域に人を送っているから整合性をかんがえないといけない
面倒だ

云われてみればそうなんだが。


第二次大戦に関する資料を読んでいると、日本軍は兵站(へいたん)力が劣っていたことに気が付く。後方から前線で戦う軍に物資を送る力が米軍にくらべて格段におちる。ひどい場合はゼロ。

緒戦においてさえ、現地調達と称して、無辜(むこ)の民から食糧を奪いながら戦線を拡大している。まるで、物資がないから戦線を拡大していったかのようにも見える。

戦争がたけなわになると徒手空拳の場面が多くなる。インパール作戦の資料を見るとなんと無謀なことをやったのかと悲しくなる。

よく言われるように日本に物資が少なかったという面はあるのだろうが、それ以前に戦略、戦術のお粗末さ、そして同胞に対する愛の欠如が大きいと思う。

後方にある参謀が戦略、戦術をしつこく考えないから、前線に送りだしたあとのフォローが杜撰(ずさん)である。

あとは野となれ山となれ、苦しいときは神風が吹く。負ければ前線の責任。勝てば参謀の手柄。まさかそこまでひどくはなかったろうが。

兵站だけではない。前線も米軍にくらべて戦術がお粗末だ。ミッドウェー海戦は日本軍のほうが米軍より優位だったが、戦略以前の戦術で完敗している。


同胞への愛の欠如。

遊就館に展示してある、人間魚雷を見たときは情なかった。

人間魚雷に乗って出陣したら生きて帰る可能性がゼロという設計になっている。乗せられる兵士、兵士の身内の気持ちを考えない狂気の産物でしかない。

人間魚雷は結構大きな代物である。せめて、目標物の手前五百メートルまできたら兵士を脱出させるという設計くらいしたら良いのに。

同胞への愛の欠如という狂気が日本民族のDNAにあるのかもしれない。ウチナーンチュへの思いがない。口ではあると云っても腹にないから自民も民主もおなじことになる。


前線で戦っていた部隊が全員死亡したというので、現地にいる参謀が参謀本部へ全員玉砕という報告をだした。ところが部隊の何人かが戻ってきた。現地参謀は玉砕の報告をしたのだから、死ねと命じた。それに反抗する士官を殺した。

そういう話を水木しげるが書いている。

目的がなんだか分らなくなってしまうのが日本民族なのかもしれない。目的と手段の区別をしないのが日本民族なのかもしれない。

昨年八月に自民党を否定し、民主党を勝たせた方は、いまいちど落ち着いて考えることだ。

あのとき、あなたは、しかるべき目的があって民主党を勝たせた。あなたの描く目的を果たすために民主党を勝たせた。あなたの目的を果たせないのであれば民主党を勝たせる必要はない。

民主党を勝たせたのは手段であって目的ではない。何が何でも民主党を勝たせるというのでは日本軍の狂気と変わらない。

可視化をやるというから民主党を勝たせた神奈川県の方は千葉景子に投票してはいけない。

やっぱり、脱線してきたなあ・・・


M銀行国際部で働いた四年間は憂鬱だった。

新しい拠点をつくって人を前線に送り出すのだが、そのあとは限りなくゼロに近いフォロー。仏つくって魂入れず。生んだ子をほうりだす。成功するかどうかは拠点の自己責任。参謀本部の責任ではない。あとに残る乱雑なファイル。M銀行の秀才たちの実情はそんなところであった。ひとことでいうと無責任。日本のエリート官僚と変わらなかった。

心が痛くなってきた。

もうひとつの話はまた明日。なんだかシェーラザードみたいになってきた。千夜一夜物語になるのか?

クリックすれば兵站(へいたん)
クリックしないと兵豚
↓ 
http://blog.with2.net/link.php?310164



今シーズン最後のVSOはシェーラザードだった。コンマスの腕のみせどころがたくさんあり、他の楽器もキラキラと光るように作られている曲である。

長井明さんによるとトビーの指揮だと曲本来の良さが出ないのだそうだが、ニ、三十年ぶりに聴いた生のシェーラザードを愉しんだ。



指揮者:エルネスト・アンセルメ
演奏:パリ音楽院管弦楽団

高校時代、このLPを初めて聴いたときの気分を覚えている。曲の出だしでもってぐいと引寄せられ、あとはそのまま夢の世界に入った。

シェ―ラザード姫の語る物語に魅せられたシャーリアール王の気分になる名曲である。


シェーラザードでググったら妖艶なバレーの動画があった:

http://www.worldfolksong.com/songbook/classical/schehe.htm

牟田口 廉也(むたぐち れんや、1888年10月7日 - 1966年8月2日)は、日本陸軍軍人。最終階級は中将盧溝橋事件や、太平洋戦争大東亜戦争)開戦時のマレー作戦や同戦争中のインパール作戦において部隊を指揮する。

 

生涯

佐賀県出身、陸軍士官学校(22期)卒、陸軍大学校(29期)卒

少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功

昭和12年(
1937年)7月7日夜半に発生した、盧溝橋事件で、中国側から攻撃を受けた支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊の大隊長だった一木清直
は上官である牟田口連隊長に反撃の許可を求め、牟田口は、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として独断で許可

但し、盧溝橋事件の所謂「第一発」に関しては、国民党軍発砲説、中国共産党工作員
による謀略説、偶発説等があり、一概に日本軍の挑発行為とは確定できない

昭和16年(
1941年の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後のシンガポール攻略戦の指揮を第十八師団の師団長として執った

第15軍司令官に就任し、昭和19年(1944年)3月から開始されたインパール作戦では、ジャングルと2000m級の山岳が連なる地帯で補給を軽視した作戦を立案した

当初、上部軍である南方軍司令官や自軍の参謀、隷下師団は補給が不可能という理由でほぼ全員が反対した。作戦が頓挫した後も強行・継続し、反対する前線の
師団長
を途中で次々に更迭した

ビルマ方面軍司令官河辺正三
中将はこうした惨状を前に「こんなことで作戦がうまくいくのか?」と疑問を呈したというが、口を差し挟むことは行わなかった(河辺は盧溝橋事件の際も牟田口の上官であり、牟田口に同調的であったとの指摘もある

補給については牟田口は、牛に荷物を運ばせて食糧としても利用するという「ジンギスカン作戦」を実施させたが、ビルマの牛は長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草の用意もおぼつかなかったため、牛はつぎつぎと放棄され、ジンギスカン作戦は失敗した

当時このような歌が流行った。「牟田口閣下のお好きなものは、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女)、三に新聞ジャーナリスト」

日本軍には「
輜重輸卒が兵隊ならば蝶々蜻蛉も鳥のうち」の言葉に代表されるように兵站や部隊機械化を軽視する風潮があった

インパール作戦失敗ののち予備役に編入されるが、その直後陸軍予科士官学校校長に就任し、終戦を迎える

戦後は東京都調布市で余生を送った。インパール作戦失敗の責任を問われると、「あれは私のせいではなく、部下の無能さのせいで失敗した」と牟田口は頑なに自説を曲げずに自己弁護に終始した

昭和41年(1966年)8月2日、喘息、胆嚢症、心筋梗塞治療中に脳溢血を併発して死去。兵士たちへの謝罪の言葉は死ぬまで無かった。8月4日に行われた自らの葬儀においても、遺言により、自己弁護を印刷したパンフレットを参列者に対して配布させた

死後は多磨霊園に埋葬された。墓石は戒名のみが記された質素なものとなっている。

軍歴

証言

以下のエピソードは、高木俊朗文藝春秋刊『インパール』『抗命』『全滅』などをはじめとする関連書籍において、匿名を含む関係者の証言として伝えられているものである。

  • 牟田口は第18師団長時代は国境を越えてインドに攻め入ることに反対していた。その理由は険しい山々を越えて進軍することは不可能であると言う判断であったが、イギリス軍が空挺部隊をビルマに投入し各地で破壊工作を行っていたことを「英軍は山を徒歩で越えて進軍してきたもの」と思い込み、「向こうからやってくることが出来るのならば、こちらからも行くことは出来る」と判断してしまったという。
  • 前線では補給不足で苦戦が続くなかで司令部に清明荘という料亭と150人近くの芸者を随伴させ、遊興に耽っていた。しかも、作戦中も毎日5時を過ぎると自宅へ帰り、そこで浴衣に着替えて料亭へ出向く生活ぶりは英軍に筒抜けであった。英軍はこれを前線でスピーカーを通じて流したため日本軍将兵の士気を著しく下げた。また、これらに対して諫言を呈した部下を最前線に送り玉砕命を下した。またインパール作戦敗色濃厚と見るや司令部の裏手に祭壇を築かせ、作戦指揮そっちのけで毎朝戦勝祈願の祝詞をあげていた。
     
  • インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」
以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。
  • 牟田口は前線部隊に対しては現在地死守の命令を繰り返すのみで撤退を一切認めなかった。この死守命令のため組織的な撤退作戦が行えなくなった前線部隊は極限まで戦闘した挙句一気に壊滅、戦線は雪崩をうって崩壊し司令部が敵の攻勢にさらされる可能性が出てきた。牟田口はこの危険を察知するや自らは現在地を死守することなく後方撤退路確保のためと称し指揮下部隊を置き去りにしていち早く戦域を離脱し安全な後方地帯へと逃げ込んだ。
  • 普段より部下に対しては「失敗したら腹を切れ」と難詰することがあったといわれる。インパール作戦が敗色濃厚となり部下(参謀の藤原岩市)に「陛下へのお詫びに自決したい」と相談した(もとより慰留を期待しての事とされる)。これに対し部下は「昔から死ぬ、死ぬといった人に死んだためしがありません。 司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、 一応形式的にも止めないわけには参りません、司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」と苦言を呈され、あてが外れた牟田口は悄然としたが自決することなく、余生をまっとうした。
  • インパール作戦失敗の結果ビルマを失うこととなったが、これに対し「攻勢に出たからビルマを失うだけで済んだ、インパール作戦が無かったら東南アジア全部を失っていた筈だ」と自己弁護に終始した。
     
  • 第15師団山内正文の戦闘詳報に「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と名が挙げられている。
     
  • イギリスでは、英第14軍司令官スリム中将回想録『DEFEAT INFO VICTORY』でインパール作戦を痛烈に批判している。昭和37年7月25日に英アーサー・パーカー中佐から牟田口へと渡された書簡では、意表をついた作戦と評価されている。また、師団長の後退がなければ、最重要援蒋ルートであるレド公路への要衝でもあり、インパールへの補給・増援の起点でもある要衝ディマプールは落ちていたかもしれないと牟田口を高く評価している。もっとも、たとえディマプールを占領できたとしても、維持できたかどうかは別問題である。このパーカー書簡を持って牟田口は戦後それまでの謝罪活動を止め、国会図書館における説明資料『牟田口文書』を作成。以後、この『牟田口文書』をもとに自己弁護につとめ、パーカー書簡のコピーを常に持ち歩き、その論旨をもとに弁明につとめた。

定説に対する反論

海軍が戦線拡大させたことによる太平洋上での戦い(ガダルカナル、ニューギニア、サイパン、フィリピン、硫黄島、沖縄等)は殆ど全てが輸送も補給も考えない全滅玉砕することを覚悟した作戦ばかりであり、陸軍のインパール作戦ばかりが特別に批判されている事を疑問視する声もある。 佐藤晃 (戦史家)は、インパール作戦はインド独立支援という大儀もあり、巷で言われるほど無謀な作戦とは思えない。作戦の失敗は第33師団(柳田元三中将)の失態で勝機を逸したことと、海軍の作戦によって殆どの陸軍航空兵力を南方へ取られたためである。米軍司令官(ストップフォード)は牟田口を賛辞しており、失態さえなければこの作戦は成功していたとしている。中国の蒋介石も「ビルマの日本兵を範とせよ」と高く評価しているとしている

問題は想定外の長期戦化への対応、撤退の判断の遅れ

佐藤幸徳中将は戦後の回想録の中で「インド開放などという政略を加味したこんな大作戦は、大本営が立案して総軍の指揮下にビルマ方面軍が実行にあたるべきものである。それを一個の軍司令官(※牟田口のこと)に一任して、それがだめになっても、知らぬ顔をしていた。 最も重大な最後の場面には、方面軍からも、総軍からも、一名の参謀も派遣させず、さわらぬ神にたたりなしの態度をとったのは、まさに亡国の徒といわねばならぬ。」として、15軍の牟田口個人というよりは、その上部組織(方面軍・総軍・大本営)を批判している

 

関連項目

外部リンク


原典:ウイキペディア
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