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コメコメ@ オリンピック・万博・花・鳥 & 沖縄
昨日はいただいたコメントにコメントを書いたあとでもうひとつコメントをいただきました。ドアをしめて発車したらバックミラーに乗客の姿がみえたバス運転手の気分(笑)。
 
オリンピックの臨場感はどうでしたか。日本のマスコミの馬鹿騒ぎはともかく、若者たちの挑戦は終わりました。勝者も敗者もこれからの人生に幸あれ。
私はというとテレビの中継を1回も見ることなく終わりました。ホンとは見たかったかも。
某都知事が東京に冬季オリンピックをというのではないかと心配していました。
| ヒキノ | 2010/03/16 4:01 PM |

小学校に入る前、父親から万国博覧会の話を聞いたことがあります。万博には世界各国の珍しいものや、新しい発明品が展示されるというので、ぜひとも見たいと思ったものです。でも食べるものや着るものが足りない時代、日本に万博がくるのは無理だと子供心にも分っていました。

十数年が過ぎ1970年。

かけだしサラリーマン・おのまは大阪万博Mグループ館の渉外役なる名刺をもって半年働きました。父は本店勤務から万博出向とは左遷ではないかと顔をしかめました。仰々しい肩書き、実はVIPの受け付け兼電気自動車運転手でした。左遷だったのでしょう(笑)。

役目柄、主要なパビリオンのご同役たちとわたりをつけていましたから、一般客が二時間、三時間まって入るアメリカ館、ソ連館もススイノスイでした。

ススイノスイはいいのですが、スパイとつきあってるのではないかと公安の人が訪ねてきたことがあります。ソ連館にたくさんスパイがいてそのうちのひとりがおのまにつながったというのです。

おのまがノンポリだということを分ってくれ、スパイが多すぎて追いつけないとグチって帰りましたが、はて真相はどうだったのでしょうか。公安のおじさんのマッチポンプじゃなかったのかなあ。日本の警察、検察にいまひとつ信を置いてないおのまは疑っちゃいます。おっさん、いい加減にほんとのことを云ったらどうだ。世の中甘く見るんじゃねえぞ。

半年のあいだに、Mグループのトップだった
佐藤喜一郎さんのお供をなんどかしたのですが、佐藤さんをみて、偉くなってはいけないと思いました。偉くなると周囲の人によってスケジュールを作られ、たくさんの肩書きを背おわされ、個人の時間などほとんど残らないことが分ったからです。

いま思い出しても佐藤喜一郎さんの背中には滅私奉公の精神がにじみでていました。いつも肩にカメラをかけておられたのですが、皮紐に値札がついてるのが気になって仕方無かったものです。

一緒に奥様がこられたことがありますがやっぱり値札がついていました。なんで注意してあげないのか不思議でした。

奥様は佐藤さんの三歩あとを歩いていました。奥ゆかしく感じました。首相と首相夫人が手をつないで飛行機に乗るなんてのはアメリカの真似みたいでやだよね、と書くと反発くらうだろうな。

万博が終わり、Mグループの打上げパーティーにこられた佐藤さんのカメラを見たら値札ではなく名札でした。余計なことを言わないでよかった。

佐藤喜一郎さんの背中をみて、駆け出し・おのまは、偉くなるのは勘弁、でも日本のため懸命に働きますと誓いました。

佐藤喜一郎さんのおかげでおのまの留学がかなったのではないかと思うエピソードがあるのですが、それはいずれ又。

・・・

大阪万博、ワシントン州・スポケーン万博、つくば万博、バンクーバー万博とじつに四度も万博をみることができ、こどもの頃の夢は十分以上にかないました。

万博に縁があってもオリンピックには縁がありませんでした。テレビ観戦も札幌とカルガリーの二度。東京、長野は見ていません。それでいいよ。欲張ったらバチがあたる。

それがこんかいは24時間テレビで見ることができ、会場で観戦もしました。恵まれすぎ、こんなんで良いのかと思います。消える前のローソクが最後に明るく輝くとか、生まれてきた良かったと思っていないふしがあるから最後に良い思いをさせてやるという悪魔のはからいかもしれません。

オリンピックの臨場感はどうでしたか・・・

選手たちの動きをまのあたりにして思ったのは一流選手といわれる人は実にストイックなものだということでした。彼らが送っている一日、一時間、一分、一秒の密度の濃さを思って尊敬の念を覚えました。

テレビの中継を1回も見ることなく終わりました・・・

ヒキノさんの世界とオリンピック選手たちの世界とは似ているところがあるのではないでしょうか。オリンピックを見る時間がなかった方々のなかには、ご自身の世界で密度の濃い時間を生きている方がたくさんおられるのだろうと思います。


もう一箇所 ハイライト したところがありますが、あの閣下について語ると気分が悪くなるので省略。

それよりなにより、きょうはヒキノさんが沖縄のことを書かれているのには驚きました。

花や鳥の観察と変わらない精密な沖縄の記事をコピペします。

ラターシュに魅せられた気弱な地上げ屋さん、
http://latache1992.blog56.fc2.com/

ウチナンチュウの積年の思いを密度こく認識し、それを核にして行動すれば、鳩山内閣の支持率は回復しますよ。およそ密度の薄いヘタレ外交官、ヘナチョコジャーナリストなんて虫です。

クリックすれば濃い時間
クリックしないと豚時間
↓ 
http://blog.with2.net/link.php?310164


沖縄戦・・・生きたくても生きられなかった・・遺骨収集の現場から

 
NHKテレビ・福祉ネットワーク「狎犬る力"を取り戻せ」という番組が2月25日放映されました。この話を私がいつも見ているこころの一人旅」2月26日のブログを見て知り、3月4日の再放送を録画して繰り返し見て考えました。

1945年4月1日から6月23日の沖縄戦・・・もう65年がたとうとしています。亡くなったかたは日本軍、米軍、沖縄県人すべてを含めて20万人余。いまも多くのかたの遺骨が土中に埋まったままです。

2009年10月9日、那覇市首里の旧日本軍司令部の近くの空き地の丘に上に沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨収集のために50人の人が集まりました。路上生活者・家や仕事を失って支援施設に住む人たちの仕事として遺骨収集の市民団体、路上生活者自立支援NPOの方たちが市に呼びかけて実現したものです。2ヶ月働いて約20万円、50人ですから予算は1000万円規模。それを自立のきっかけにしてもらいたいというのが狙いなのでしょうか。


この人たちは
何でここで
死ななきゃならなかったのか
(遺骨収集市民団体世話人さんの言葉より)

彼らは生きたくても
生きられなかった"人の命”だった
その遺骨に触れることによって
真剣に生きることを考えて・・・
(自立支援NPO世話人さんの言葉より)

首里の丘の上でしょうか。
かつてこの丘の上には一草一木もないほどに大量の砲弾が打ち込まれました。


10月21日、最初の遺骨が発見されます。
銃弾も大量に出てきます。
お骨には銃弾の貫通したあとが。
お骨は兵隊さんかウチナワンチュか米兵かわかりません。
死ねばみなホトケ様です。

64年間、野ざらしになっていたこの人も
これで心安らかに眠れるのではないか・・・

年が明けて1月、慰霊祭が行われました。


確認された遺骨は170柱。お線香が捧げられます。
 

幸せね
こうして供養される
みなさんは

まだ多くのかたがたが
土中の眠ったままです。

働いていた人たちのつぶやき・・・
ここで働いて人生が変わった。ほんとに働いたような気がする。
前よりも前向きに生きていけるのではないか。
仕事は終わったが忘れてはいけない。
遺骨をとおして学ばなければいけないことがあった。
人のためでもあったが自分のためでもあった。
生きていてよかったという気分でがんばりたい。
死んだらそれで終わり、自分はまだ生きている、まだやり直しができる。

ここで働いた人たちがこのことをきっかけにして進んでいってくれることを願ってやみません。


戦場だった沖縄。1945年4月1日米軍が沖縄本島に上陸してから沖縄はずっと基地の島のままです。普天間・嘉手納から朝鮮戦争にベトナム戦争に戦略爆撃機が飛び立っていきました。とうぜん弾薬庫もあります。いままた1500mの滑走路の新しい基地を緑豊かな沖縄北部・ヤンバルの地に作ろうとしています(沖縄中部東海岸勝連半島のホワイトビーチ案も出てきました)。作ってしまえば既成事実としてまたまた50年以上はそのままでしょう。100年以上も祖国でない祖国。数100年前までは沖縄は武具もないような平和な国だったのです。
沖縄の土の中で眠っているこの大戦の犠牲者のためにも沖縄から戦争のための基地をなくすことを切に願っています。
(写真はベトナム戦争時に嘉手納基地で不気味な姿を見せていたB52戦略爆撃機)
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| おのまのプロフィール | 沖縄 | 23:49 | comments(2) | trackbacks(0) |
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拙ブログ・・・リンクしてくださってありがとうございます。
早速、おのまさんのブログからの閲覧がありました。
おのまさんが大阪万博でお仕事をなさっていた1970年、ベトナム戦争は泥沼に、沖縄では米海兵隊が殺らなければ殺られると人殺しの訓練をしていたのですね。嘉手納基地の黒い機体を思いだします。あの中には枯葉剤や細菌兵器も入っていたのでしょうか。1972年沖縄は日本になりますがあのころとまったく変わっていません。いつの間にかカテゴリー「沖縄のこと」は27になりました。
| ヒキノムラビト | 2010/03/18 8:03 AM |

ヒキノムラビトさんは沖縄について以前から書かれていたのですね。

沖縄が日本に復帰したことが良かったのかどうか疑問に思い始めています。琉球王国としてふたたび独立し、米国と直接交渉するほうがウチナンチュウにとって良い結果がでるのではないでしょうか。
| おのま | 2010/03/18 11:22 AM |










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