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ビルマの花・ふたたび 無言館
★このブログの右 recommend に読者に読んで欲しい本がでています。そのうちの一冊が
商品名
ビルマの花―戦場の父からの手紙
¥ 1,890



秋庭昴(あきばこう)という中尉が戦場から子供たちに送り続けた絵いりのハガキが収められているこの本は戦争や政治について語るひとにとって必読の書であると信じお勧めするものです。

「ビルマの花」をもとに2007年8月にブログを書いたところ、翌年の7月に秋庭さんのお孫さんという方からコメントをいただき、なんどかコメントのやりとりがあり、その模様をブログに転載しました。

最後のブログ http://onomar.jugem.jp/?day=20080818 からの抜粋:


2008/08/06 
渡良瀬川の花火を見てきました。お墓参りもしてきました。「山の中腹」は高く上がった花火がきっと見えるでしょう。音は市内に響き渡るほどの大きさなのでしっかり聞こえたでしょう。
 
何しろそこは山の斜面を切り開いたところで、東南を向いていて、日差しを遮るものが何もなく、じりじりと暑かったです。お茶と小さな饅頭を二つ供えて来ましたが、父に「早めに回収しておいて」と頼んだほどでした。(注:秋庭さんのお孫さんからのコメント)

2008/08/06
「ビルマの花」を読んだあとに残っていた一抹の寂しさが渡良瀬川の花火の音とともに薄れるようです。(注:おのまのコメント)

以上をもって秋庭さんのお孫さんとのやりとりは終わりましたが、お蔭さまでことしはかつてなく穏やかな気持ちで八月十五日を迎えることができました。


2009年11月14日秋庭さんのお孫さんからメールを頂戴しました。

祖父が長野の「無言館」の出版物に載りましたのでお知らせしますとありました。

「無言館」とは戦場へ赴く画学生たちが残した作品や用具を納めた長野県にある美術館だそうです。

http://www.city.ueda.nagano.jp/hp/kanko/museum/mugonkan.html

秋庭昂中尉が無言館という別荘を持ったようで豊かな気持ちになりました。


クリックすれば別荘もてる
クリックしなくても今日はにならないだろう

http://blog.with2.net/link.php?310164

ビルマの花・ビルマの子
http://onomar.jugem.jp/?day=20070810
ビルマの花・鳥
http://onomar.jugem.jp/?day=20070811
ビルマの花・うさぎのもちつき
http://onomar.jugem.jp/?day=20070812
ビルマの花・船
http://onomar.jugem.jp/?day=20070813
さいごの絵
http://onomar.jugem.jp/?day=20070814
林雨・ビルマの花
http://onomar.jugem.jp/?day=20070816
ビルマの花
http://onomar.jugem.jp/?day=20080729
林雨・ビルマの花ふたたび
http://onomar.jugem.jp/?day=20080818


無言館の写真がでているブログをみつけました。http://hakuzou.at.webry.info/200909/article_12.html

ブログの抜粋

   絵を見た人も無言になる戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪ねて  

無言館には 第二次世界大戦中に志半ばで戦場に散った画学生たちが残した絵画・作品・愛用品などが収蔵・展示されています。

無言館館主の窪島誠一郎(1941年生)は小説家・水上勉の実子(旧民法上の私生児)としてもよく知られており 詳しくは私のブログ別記事 
 「無言館」館主・窪島誠一郎が2歳の時に生き別れた父を探し作家・水上勉と知るまでを書いた「父への手紙」  を参照ください。


 戦没画学生の遺作を集めて「無言館」を建設することになったきっかけは 昭和52年(1977年)にNHKから出版された「祈りの画集」を窪島誠一郎が読んだことにあります。 NHKテレビで 画家・野見山暁治(1920年生)が戦没画学生の家を尋ね歩くという番組”祈りの画集”が放送され そのことを記録した”祈りの画集”の執筆者・野見山暁治に窪島誠一郎が会った時に 野見山暁治から「いつか戦没画学生の絵を集めて展示する施設をつくりたい」という話を聞き 賛同した窪島誠一郎が「無言館」を建設することになったものです。

野見山暁治は 昭和17年に東京美術学校(現東京芸術大学)を繰り上げ卒業して満州に出征したもの 肋膜を患い陸軍病院に入院し生き残りますが 多くの美校仲間が戦場で死んだことを悼み 生前の絵を集めて展示する施設を作りたいという思いに至ったものです。

窪島誠一郎は その著書「無言館 戦没画学生“祈りの絵”」の中で その辺のいきさつについて 次のように書いています。 

野見山先生には黙っていたけれども、先生の亡き画友への鎮魂録「祈りの画集」にうたれて「無言館」建設を思い立った私の心奥には、戦争にとことん苦しめられ、口にいえぬ辛酸をなめながら貰い子の私を慈育し、報われぬまゝ先年この世を去った両親への憐れみがあったと思う。憐れみというのも甘い言い回しだけれども、私は死んでいった画学生のどの絵にも、あふれるような存命の歓びと肉親への感謝を発見して瞼がぬれたのだった。親が生きているうち、何一つ孝行せず、すべてを子の手柄のように考えてきた自分の姿をふりかえってやるせなかった。同時に、父や母の背後にあった「戦争」をも一顧だにしようとしなかった自分がなさけなかった。全国をめぐって戦没画学生の遺作を集めることは、そんな私自身の五十数年にわたる思いあがりの暦を、もう一度みつめ直すきっかけになるのではなかろうか

私のブログ記事 
「無言館」館主・窪島誠一郎が2歳の時に生き別れた父を探し作家・水上勉と知るまでを書いた「父への手紙」 の中で 私は次のように書きました。 

窪島誠一郎は 実父・水上勉との交流を深める一方で 実母のことは決して理解しようとせず冷遇し 大恩ある養父母を毛嫌いし口をきくことさえ避けたので 批判もあるようですが 同年代の私としては その屈折した気持ちを何となく分かる気がしました。

生母と養父母を存命中に冷遇したことは 窪島誠一郎が上記文章(青字の太字部分)の如く正直に認めているので 事実だったようです。 しかし そのことを悔いたことが「無言館」を建設する心底にあったというのは 私にとって新発見であり 驚きでもありました。

無言館に展示されている絵は 勉強中の画学生の作品であり 専門家から見れば未熟・稚拙なものもあるようですが 『あの時代』に若き画学生たちがどんな気持ちで絵を描いていたのか どの絵も見る人たちに無言で訴えており 私も絵を見て無言となりました。


白象の気まぐれコラム 

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