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過去⇔現在を行ったり来たり・ときどき未来へも@バンクーバー 

アルバム はだし
二年生の運動会

みんな裸足である



母からかかとをつけずつま先で走れと教わった通りに走り一等になった



学校に出入りしている写真屋から写真を買ったが写ってるのは私ではないと思った

四年生のとき横浜から郡山の学校に転校したらクラスには自分より速い子が何人かいてクラス対抗リレーの選手にもなれなかった。芳山小学校は体育の授業が充実していて、生徒たちの運動能力は本郷小学校より高かった

中学生になり陸上部に入ったところ背がどんどん伸び、そのせいで歩行がままならないほど膝が痛くなり挫折した。膝のいたみは一年ほどでなくなったが、それまでは大いに悩んだ

高校二年の初夏。発熱してそのまま入院。結核だった

春の集団検診で異常なしだったのに変だというので調べたところX写真を撮った時にフィルムが入っていなかったという。一年休学したあと卒業まで体育は見学とあいなる。他人のでたらめによって人生は大きく変わることがある

大学ではボート部に入った。私の背筋力は200キロあり部で一番だった。肺活量も6000CCまで回復していた

オリンピック選手をだす本格的な部でそれはそれでいいのだが、普段の日にも合宿をするので授業に出られない。部をやめて同好会のボートチームに入った

雨が降る戸田漕艇場でこいだときの爽快感と汚い隅田川にボートを運び込む時の不快感を覚えている。総合すると爽快感が勝つ

サラリーマンになりテニスとゴルフを始めたがいずれもお遊びの域をでなかった

ゴルフのベストスコアは39+41=80。ハーフ39は何度もでたが、あと一歩で80をきれなかった。ハーフのベストは38。短かいがそれでもパーフォーのホールでティーショットがグリーンを越えたことが二度。仕事をやめてゴルファーを目指そうかと妄想した

1999年、八日かけて車でトロント・バンクーバーを走ったら体のバランスが崩れたらしく90をきれなくなり、日本でまわったらシャンクの連発で120たたき失笑された。バンク−バーに落ち着いた今も100前後で低迷している。今シーズンは一度もプレイしていない

三年前に再開したスキーは上達の途上にある。今シーズンは三十五日滑った。五月はウィスラーで滑るつもりだったが、右足首の痛みがとれない。十一月になったらいの一番でウイスラーに行こう

体を動かすのは楽しい。今がいちばん楽しんでいる


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アルバム・本郷小学校 3
戦争に負けると急に民主主義とか男女同権とかいう掛け声が高まっていったと思っていたのだが、男子と女子が分かれて写っている



記念写真を撮ったあと校庭で行われる入学式のために男女が並ばされた

隣の子と手をつなぐようにいわれたが、いやだったので手をつながないでいたら先生がやってきてつながされた

先生がいなくなったのをみはからって手を振りほどいたら女の子が泣き出した

気の毒なことをしたとは思うが、無理に手をつながせることもなかったろうにとも思う



↑左から二番目は校長先生の娘さんで、高橋弘子さんといった

勉強がよくできただけでなく、絵を描かせると大人のように上手な絵を描くのでいまだに忘れない。他の子達の名前は思い出せない



担任の石井先生はやさしかったので生徒は慕った

とてもきれいな字を書く先生であった

石井先生は学期の途中でいなくなったが、どういう事情があったのかは知らない



こうやって見るとまだ二十歳をでたばかりのようである

生徒たちと同じようにあまり機嫌の良い顔ではない

いろいろあったのだろうなあ


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アルバム・本郷小学校 2
入学記念写真を再掲



しかめっ面の子が多い



私も眉にしわを寄せている

食べもの不足の時代。すきっぱらで不機嫌だったのだろうか
うまれて初めての集合写真に緊張してたのだろうか
太陽の光がまぶしかったのだろうか

↑たぶん最後だと思う
公害ない、空気きれい、太陽まぶしい

突如ひらめく。私の右にいる吊りズボンの子は島村君と言ったのではなかったろうか

下駄の子が多いが、オオー、靴と靴下のザイバツもいる



前列ひだりから二番目の子は背が低くかったが負けん気が強かった。二年生になるとズボンに自転車のチェインを巻いてくるようになり、それを振り回すものだからみんなから一目おかれるようになった。人望はもちろんない

暴力に頼るものは長続きしない。いまやアメリカ人の82%がブッシュの方向は間違っていたとしている。イランを殲滅させると叫んだクリントンは蟻地獄に落ちた

私は一足だけあったズック靴は遠足などにしか使わず、学校は下駄かぞうりで通った。雨がふると鼻緒がすぐ切れた。持ってる紐やぼろきれで応急措置をするのだがすぐまた切れる

面倒になり雨のときははだしで通ったこともある。道路は舗装されていない。あの辺は粘土質の土で足の裏にあたるぬかるみの感触は悪くなかった

1982年春。ミャンマーの古都、メイミョーの山寺に入る時に裸足で巡るように言われた。靴を手に持って三十分ほど歩いたら、とてもさわやかな気分になった。大地に触れることで地球の気が入ってきたのかもしれないと思った

なにか体に不調のある方へ:ものはためし、裸足で土の上に立ってみませんか

本郷小学校からシンガポールにワープ。1978年から82年までの四年間、私の専用キャディーのようになった少年がいた。少年はわたしのバッグをすくなくとも二百回はかついだ。彼はよく裸足で現れたがそういう時は小学時代を思い出した。少年の名前はオクイ。今でも無事なら・・・おお・・・四十歳になってる・・・

下駄での通学は高校を卒業するまで続く。考えてみれば猿・ニンゲンは成人するまでの二十年はどんどん体が変わっていくから、靴や洋服のようにサイズの融通が利かないものはすぐ役に立たなくなる

その点下駄やぞうりは足のサイズが多少変わっても長く使えるのがいい。ミャンマーのロンジー(巻きスカート)ならヤセだろうがメタボだろうが、♂だろうが♀だろうがソンナノカンケーネー

「地球にやさしく」と本気で考えてるつもりでおられるそこのアアタ、お子にはぞうりをはかせましょう。ズボンをとりあげて巻きスカートをはかせましょう

昨年の夏、一足三百円也のゴムぞうりを買った。近くで買い物をするときはそれを履いていく。靴下をはかないから冬は寒いが、サイズ11の足がむれないのが良い

ムレン イレブン いいきぶん ♪


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アルバム・ 本郷小学校 1
満州から日本へ戻ったのがいつだったかを知らない。早くても敗戦の翌年、1946年であることを昨日知った

引き揚げ船に乗り込むときの光景を覚えている。寒くなかった。春だろうか、夏だろうか、それとも秋・・・わからない・・

父はリュックサックを背負い、両手に荷物をもち、母は次男を背に、三男を胸にだき、そしてたぶん四歳になって間もない私もちいさなりュックを背負い、歩いたり、貨車に乗ったりして満州(三男の生地チチハル?)から朝鮮の釜山港までの逃避行に何日かかったのかも知らない

その間の写真はない。我が家に闖入(ちんにゅう)したロシア兵たちは父のカメラ(ライカ)も奪っていた

ロシア兵の姿が記憶にある。わたしは彼らの脚を蹴飛ばしている。ロシヤ兵たちは面白がっている

今、そのロシヤ兵たちに対する憎しみの気持ちはない。奪略、レイプ、殺戮は戦争に付き物なのだ。憎むべきは戦争を起こす馬鹿猿たちだ。ブッシュ戦争に賛成したクリントン、イランをobliterate(殲滅・せんめつ)させると言ったクリントンが負けるのはとてもめでたいことなのだ。いやさか・・・

(いやさか・・漢字変換でませんね

弥栄と書きます

広辞苑:いよいよ栄えること。「みくにのいやさかを祈る」・ 繁栄を祈って叫ぶ声。万歳

いやさか・・万歳より優雅でしょう

外国のよりも良いし

ロシア:ウラー
韓国:マンセー
カナダ:ブラボー

↑ぜんぶ違う?)

逃避行のときに一家がいつもかたまっていたわけではない。母は子供に乳を飲ませたり、下の世話をする。他の日本人達と一緒に何時間も歩いているうちにバラバラになったりする

そのときも母は父から遅れて歩いていた。ふと道端をみると、父の荷物の中にあったはずの重箱が捨てられていた。とても悲しくなった

その話を聞いた時は子供心ながら、そんなものまで持ち帰ろうとしなくてもいいのにと思った。わたしも最後は小さなリュックを捨てたそうだがそれでいいのだ

災難はいつおきるか分からない。戦争ほどのオオゴトでなくても、地震とか火事とかなら明日にでも身に降りかかると思ってくらすのが良い

災難が降りかかったら自身の安泰を第一とする。物を持ち出そうなどは考えず、さっさっと安全なところへ逃げることだ。私はパスポートとクレディットカードさえあれば何とかなると思って、それだけを近くに置いて寝る

日ごろから身軽を心がけること。余計な物はもたないこと。ガラスの破片やらなにやらが飛び散るから運動靴を履くこと・・ありゃりゃ・・脱線・・

昼間は危ないから暗くなってから移動することが多かったらしい。そういう時の光景をひとつだけ覚えている

私は穴の中から暗い空を見上げている。裸電球が光っている。何の音もしない。なぜここにいる。私は何者なのだ・・・

(↑最後の行は嘘。そういう哲学的な疑問は暇な時にしか浮かんでこないものです)

母は自分の脇を歩いていたはずの長男がいない事に気が付いてあわてた。折角かせいだ道をとって返した。暗闇の中に泣き声を聞いた。泣き声は地の底からあがってきた。私は野原に掘られていた防空壕の中に転げ落ちていた

何の音もしないと書いたが、泣いていたのだ・・・

(↑泣いていたことは記憶にありません。子供は泣くのが商売)

落ちた時に気絶していたら見つからなかっただろう。今ごろは残留孤児としてテレビに映っていることだろう。いや、それは運がよければの話であって、現実的に考えればこうだ。穴の中で気絶、翌朝気がつく、誰もいない、穴から出られない、餓死。そして、この世界に「木霊の宿る町」という名ブログが生まれなかったw

ええと、何を書こうとしてたんだっけ・・・

そうそう、チコンキの前や滑り台の写真のあとの数年は写真がないということだった

アルバムは一気にワープし、次に古い写真は小学校に入学したときの集合写真である



写真の横浜市立本郷小学校はだいぶ前に住宅街に変わっている

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アルバム 母 追記
弟が生まれたのはチチハルとハルビンと書いたが、満州の地図をもう一度みたら自信がなくなった。どちらかは新京だったかもしれない。だから写真の家もチチハルではないかもしれない。こんど弟に会ったら確かめてみたい



見にくい・・・赤丸が付いているが一番下が奉天。その上に新京、ハルビンと続く

直線距離で見ると奉天ー新京は東京ー名古屋くらいだ

チチハルはハルビンの左の方にある。ペイピョウという町のことも親が言っていた

三、四年のあいだに四っつ或いは五つもの町に住んだのは何故なのかという疑問がある。満州に関する文献を読んでいるうちに或る仮説が浮かびあがったのだが、書くと長くなるので今は書かない

眠り猫さんがコメント欄に書いていたように、当時は「満州」ではなく「満洲」である

「琴欧州」あらため「琴欧洲」。三日目を終わったところで見ると以前の強さがもどってきたような感じがする
| おのまのプロフィール | アルバム | 15:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
アルバム 母


母が右の写真をみながら、縁戚の青年が我が家に立ち寄ったと話してくれたことがある

名前は・・・タケシさんと言っていたような気がするが自信はない

軍人帽をかぶってる・・・戦地に赴く前に寄ったということなのだろうか

左の写真。母が弟を抱いている。ということはこの家はハルビンだ

長男(私)が生まれたのはホウテン(奉天)、次男ハルビン(哈爾濱)、三男チチハル(斉斉哈爾)

と書いたものの、どういう町だったのかはもちろん、三つがどういう位置関係にあるかというイメージもはっきりしない。急いでググり満州の地図をみたが、東京と横浜との距離なのか、それとも名古屋なのか分からない

ついでに年表をみて気がついた。三男が生まれたのは1946年1月。戦争が終わって半年後である

満州にいた軍人や官僚たちの多くはいち早く日本へ逃げ、一般市民の多くは置いてけぼりをくらった

わが家族は中国人に助けられながら一軒家に隠れ住んだようだ。隣家の中国人が塀越しに食料を母に渡している光景を覚えている

あまり口をきかなかった父があるとき私をさとすように言った。支那人は信用できる。朝鮮人は頭が良いが信用できない

トロントでつきあいのあった三井物産のJ夫妻が我が家に泊まったことがある。夫君が自分も引き揚げ者だと言った。Jさんは私より数歳うえでその頃の記憶もハッキリしていた

Jさんは淡々と話していたのだが、唐突にこう言った。敗戦後に朝鮮人から受けたひどい仕打ちを決して許さない

Jさんからは仕事で親切にしてもらった。Jさんだけではない、物産マンにはいろいろな場面でよくしてもらった。いずれはそういう話も書きたい

ところが人の話によると、Jさんはゴルフをしている最中にミスをおかすと自己嫌悪に陥ってゲームをやめて帰ってしまうことがあるという

半信半疑で聞いたのだが、あるとき一緒に回っていたら本当に途中で帰ってしまった。何の説明もなかった。前もって話を聞いていたから良かったが、さもなければ自分が何か悪いことをしたのかと悩んだことだろう

朝鮮人に対する静かながらも激しい嫌悪感を知って、Jさんの奇妙な行動がわかったような気がした

私がつきあってきた韓国人はせいぜい十数人である。だから口はばったいことは言えないのだが、そして嫌な思いをしたことが無いわけではないのだが、ふたりほどの強い気分になったことはない。嫌な思いなら日本人によるもののほうが多い

さはさりながら民族によってそれぞれのクセがあることを実感で知っている。平和のあいだなら折り合いもつくが戦争になったら憎悪の悪循環、増幅になる。決して戦争をしないことだ

だいいち日本人は戦争には向いていない。指導者層がヨワッチー(&エッチー)すぎる。現場でひとりやふたり頑張っても勝てない

ビジネスも同じだ。すべての責は自分にあることを肝に銘じていない社長だとだめ。官僚に丸投げしていたコイズミを社長にしたら会社は倒産する。石原銀行が上手くいかないのも同じ。公私混同がエライと思ってるシンタローを背任罪でチョーエキの刑に処すべし


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アルバム・本郷小学校 3

戦争に負けると急に民主主義とか男女同権とかいう掛け声が高まっていったと思っていたのだが、男子と女子が分かれて写っている



記念写真を撮ったあと校庭で行われる入学式のために男女が並ばされた

隣の子と手をつなぐようにいわれたが、いやだったので手をつながないでいたら先生がやってきてつながされた

先生がいなくなったのをみはからって手を振りほどいたら女の子が泣き出した

気の毒なことをしたとは思うが、無理に手をつながせることもなかったろうにとも思う



↑左から二番目は校長先生の娘さんで、高橋弘子さんといった

勉強がよくできただけでなく、絵を描かせると大人のように上手な絵を描くのでいまだに忘れない。他の子達の名前は思い出せない



担任の石井先生はやさしかったので生徒は慕った

とてもきれいな字を書く先生であった

石井先生は学期の途中でいなくなったが、どういう事情があったのかは知らない



こうやって見るとまだ二十歳をでたばかりのようである

生徒たちと同じようにあまり機嫌の良い顔ではない

いろいろあったのだろうなあ



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