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過去⇔現在を行ったり来たり・ときどき未来へも@バンクーバー 

1974年3月7日・7
この日のことを書き続けるときに前日かいたものを読み直すのですが、そうすると新たな記憶がよみがえったりします。でもって前に書いたものを直したりもします。カクテル時のターナーとの話もちょっと書き直しました。
さて、夕食会がおわり会場からでるときにアンディーがこう言いました。
「オレはターナーがねたましい。あいつはアングロサクソンで自信があり、すでに文句のない環境を享受していて、それを守ろうとしている。あいつは演技をしている。オレはあいつを憎む」
アンディーはいかにも東欧から逃れてきたユダヤ人という雰囲気があり、主流のアングロサクソンや準主流のフランス系の学生とのあいだに微妙な距離感があります。そういう点では日本人の私、韓国人のオム、香港人のシーエル(CL Hung)、ブラジル人のマソ兄弟も同じです。いずれも英語にハンディがあり、なにかの拍子に主流派学生たちとのあいだに薄いカーテンのようなものを感じます。アンディーが指摘するようにアングロサクソン、そしてそのチャンピオンのターナーには守るべき資産があるというのはみな同感だっかもしれません。
しかしアンディーのような憎しみの感情が他の傍系学生にあったかというと、多分なかったでしょう。カナダ人に帰化したアンディーとちがい、それぞれが帰るべき国があるからです。アンディーがあらたな祖国として選んだカナダには人種、出自からくる差別がある。アンディがこれから何年もかけて到達しようとしている目的地に到着している男が憎い。
あらら、こんなことを書くつもりではなかったのですが。タイプと向かい合っているとなにがでてくるかわかりませんね。
アンディーは当時クラスにあまり出なくなっていました。広告収入でなりたつフリーペーパーのビジネスをしている、将来五千万ドルの資産をつくると言っていました。三十年前の五千万ドルというと凄いです。ロスアンゼルスでプールつきの豪華な一軒家、いまなら百万ドルでも買えない家が当時は十万ドルで買えたのですから。、、、話がうまくまとまらないなあ。また書き直すかも。


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1974年3月7日・6
アンディーの話を続ける前に夕食会でターナー蔵相がはなしたスピーチについて書いておきます。
スピーチのどこからそういう印象があったのかは覚えていませんが、イギリスうまれのターナー氏はカナダにおけるアングロサクソンのチャンピオンだという印象がありました。資源というカナダの宝をアングロサクソンの手におさめておくことを軸にして国を動かし、その軸をぶれさせないなかで、ノン・アングロサクソンとの調和を図ることを考えている、それがスピーチの第一印象です。
もうひとつ印象にのこったのはカナダの最大問題はインフレであると強調したことです。いわゆるオイルショックのときで世界中でインフレがおきていたのですが、当時の日本の首相、田中角栄氏は日本はインフレではないと言っていました。信じられない発言でしたね。インフレを許した政治家、とくに首相や蔵相は高く評価されませんから、インフレを認めたくない気持ちはわかりますが。
ターナー氏はインフレであると認めたあと、種々の数字を示しカナダの富は増え続けていると説きました。そういうレトリックは政治家にとって必要なしたたかさです。
世界中で需給バランスが変動しているのが今のインフレであり、したがって価格統制や人件費の抑制という手段ではインフレを抑えられない。そんなことをするとカナダの国富が減る。やるべきことは需要に追いつくための供給を作り出すことである、そのためには農業政策の転換も積極的に行う、というようなスピーチでした。
今は世界的にデフレ気味ですが、これも需給バランスが原因。三十年前と反対に供給が過多だから価格が安くなる。原油の価格があがってきたので他のモノ、サービスの価格があがるかもしれませんが、誰かが値段を上げても競争相手が我慢してあげないと上げたひとは顧客を失いますから、なかなか値上げは難しいかもしれません。


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1974年3月7日・5
デリー・ジェリナは率直だと書きましたが、あるときアンディー・ジョーダンという同級生にお前は女みたいな喋り方をするといったことがあります。アンディーはルーマニヤからきたユダヤ人で、英語になまりがあるのと、すこしまわりくどい話し方をします。そういわれると女みたいなという表現はあたっていますが、そんなことを言うのはデリーくらいです。
デリーはなにかの拍子に、北バンクーバーなどはひとの住むところではないといったこともあります。三十年後にじぶんがそこに住むことになるとは知る由もなかったのですが、それだけではわからない、どういう理由でそう思うのかと詰問するように聞いたところ、ちょっとひるんだように答えましたが、どういう理由だったか覚えていません。
カクテルの時アンディーが「ターナー蔵相のボディーガードはどこにいるんだろう」というので「いったい誰が何のためにターナーを襲う必要があるんだい」と聞くと「新聞をにぎわして面白いじゃないか」と答えました。悪い冗談をいうものだと、呆れたのですが、アンディーの話にはあとがあります。


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1974年3月7日・4
カクテルがおわり、正食堂のテーブルで夕食会がはじまりました。どんな食事がでるのか楽しみでしたが、でてきたものはミートパイ。ミートパイは何度か食べたことがありましたが、ぱさついた感じで、カナダ人はなんでこんなものを食べるのだろうと思っていた代物。それが蔵相を招いての夕食会にでたのでびっくりしました。
隣りの席の、デリー・ジェリナという同級生に、美味いかと聞くと、うん美味いという答え。率直なデリーのことですから、ほんとに美味しいと思っているのでしょう。デリーは卒業後に連邦政府の役人になり外交官の道を歩むことになります。


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1974年3月7日・3
この日のメインゲスト、ターナー蔵相もUBCの卒業生。法学部です。トルドー首相の後任との呼び声が高かったのですが、トルドー政権が長期に及ぶにつれ彼は政治に興味を失い、下野しマクミランビンチという法律事務所に勤めます。。約十年たってようやくトルドーが引退したあと政界に復帰して、首相になりますが、在任期間は短いものでした。
ところでカナダは十年にいちど(だったと思いますが、あるいは違うかも)銀行法の改正をします。カナダの銀行法では一部の例外をのぞいて外国銀行の営業を認めていませんでした。認めるとカナダの銀行はアメリカの銀行に駆逐されるだろうと言われていました。
私はターナー蔵相に、銀行法改正時が近づいているが、外国銀行の営業をみとめるつももりかという質問をしました。雑踏の中の立ち話で、そういう質問に答えてくれるはずもないのですが。次のようなやりとりでした。
近々、州政府が銀行経営に参加できるようになるらしいが、その際は外国銀行へも門戸開放するのか。
今でも東京銀行が業務をしているぞ。
いや、ああいう裏口からはいったやりかたではなく、正式な、
カナダ資産の28%は在外資産だからいつまでも鎖国をしているわけにはいかないよ。
そう言ってターナー氏は私の背中をポーンとたたきにっこり笑いました。カナダの政治家もニコポンをするものです。
外国の銀行の営業が認められるのはそのときから七、八年あとでした。今ふりかえると、当時はターナー氏がいつまでたっても首相になれず、蔵相というポストを嫌いになっていたころであったかもしれません。


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1974年3月7日・2
以下、カナダの政治家の名前が出てきますが、知らない名前が多くて退屈かもしれません。日記の内容も面白いものではありません。
三十年前の一月にオタワで開かれたエネルギー会議の様子をテレビで見たのですが、そのとき私が注目した政治家は石油生産州のアルバータ州のローヒード知事(英語ではpremierというので州首相と訳すのが良いかもしれませんが、日本の県知事にならって)、ブリティッシュコロンビア州のバレット知事、連邦政府のトルドー首相、マクドナルドエネルギー大臣たちでした。大蔵大臣のターナーもいたのですが彼の顔はすぐ忘れたものです。
三月七日、教授クラブに集まったのは地元の経済人、大学関係者たち。メインゲストがターナー蔵相。ビジネッススクールが年に一度開催する夕食会です。カクテルパーティーの雑踏のなか、私の左のほうでピアソンのことを話している声が聞えたのでみると、そうだ、彼がターナー蔵相だとわかりました。背は私とおなじ175センチくらい。銀髪をきれいになでつけ、赤ら顔は精悍。ピンクの縞模様のシャツ、赤と黒のストライプのタイ、胸元に濃紺のハンカチ、ダークスーツをがっしりした体につけ、いかにも上り坂の政治家という雰囲気。


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1974年3月7日・1
三十年前の三月六日は暖かい日でした。キャンパスのそこここにある桃の花が開き始めています。もうすっかり春だと思ったそのとき白いものが舞い降りてきました。最初はふわりと浮んでていたのが、やがて嵐に舞う桜吹雪のような勢いとなりました。空は真っ青なのに突然の吹雪でこういう天気は珍しい。晴れていて雨が降ると狐の嫁入りだといいますが、雪でもなにか言い回しがあるのでしょうか。
やがて空は暗くなり、あけて七日、木曜日は銀世界。二年間の留学生活で一番の大雪。夜になってもやまない中、車が続々とファカルティークラブへ集まります。
教授クラブとでも訳しましょうか、ファカルティークラブは宿泊設備もある建物ですが、英国女王も泊まったことがあるときけばその豪華さが想像できるでしょう。
教授クラブの右隣りには同じような建物が並んでおり、こちらは大学院生クラブ。中の豪華さは教授クラブと変わりません。中庭に面した食堂で昼食をとっていると、日本にもどるとこういう優雅な時間はないだろうなと思ったものです。
この豪華な建物はふたつともカナダに移住してきたひとりのビジネスマンが寄贈したものだそうです。


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迷う・2
迷いつつも、心のどこかで転職なんてとんでもないと断言するなにものかがいました。そのなにものかというやつはかなり理屈っぽいところがあって、転職などしたら留学させてくれた会社の上司たちがどう思う、がっかりするぞ、第一期生のおまえがすることは第二期生、三期生に影響が及ぶぞ、などなど。
転職して何が変わる? 収入が多くなる、学んだことが生かせる。そのプラスと上のマイナスを考えたら、プラスになることは全て一人の人間にしかこない。マイナスは多くの人に及ぶ。
というようなことで転職の迷いを押し込めました。そう書くとあっさりしていますが、実際には結構ながいあいだ迷いは続いたのです。


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迷う
人生ときどき迷うことがあります。三十年前、友人がミシガン大学の博士課程に進みたいと悩んでいたころ私にも迷いがありました。
ビジネススクールが発行する卒業生候補者名簿というものがあり、卒業の半年ほど前に官庁や企業に配布されます。名簿には名前、年齢、専攻科目、職歴、国籍などが載っています。
二月になり私のところにも色々なところから就職勧誘がきました。アメリカのコンサルタント会社の日本支社、カナダの保険会社、カナダ政府、アメリカの化学会社。
カナダ政府から何故試験をうけないのかという照会がきたときにはびっくりしました。日本人であることがわかっていて、そんなことあるのかという思いでした。いまになってみると、あの頃のカナダは成績優秀であれば外国人でも採用して、カナダ国籍を取らせるのかもしれないと思います。
カナダ政府はともかく、コンサルタント会社の日本支社への転職のことは何度も考えました。日本の会社にもどってもビジネススクールで学んだことを生かす機会は少ないであろうという予感があったからです。


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オム
昨日書いたとおり韓国からきたオムは博士課程に進み、そのごオンタリオ州のクイーンズ大学の先生を経て、ブリティッシュ・コロンビア大学の教授になりました。統計解析による交通経済学の権威として色々な航空会社のコンサルタントをしており、日本の経団連に招かれて講演したりしています。
彼が博士課程に進んだ理由は当時の韓国の政治事情が絡んでいるのですが、詳細についてはまだ明らかにする時期ではないかもしれないので省略。


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ミシガン大学・2
博士課程に進みたいという友人の希望を側面支援しました。韓国三星グループからきていたオムが博士課程に進む予定であることを書き、当社の留学生も博士課程まで進めるようにしたら良いのではなかろうかというようなことを人事部に書いたのです。
ようやく第一回の留学生を送り込んだと思ったとたんにそういう希望がでて人事部も驚いたことでしょう。友人の希望はかないませんでした。
三十年前このあたりに彼が歩いていたかもしれないと車の中からミシガン大学を感慨深く眺めました。


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ミシガン大学
デトロイトに戻りました。正確にいうとデトロイトから7、80キロ西にあるアン・アーバーという地域に戻りました。
アン・アーバーの核はミシガン大学。広大な土地に散在しているキャンパスと折り重なる町、住宅地。一見ブリティッシュコロンビア大学より広そうです。住宅地の広さからの印象です。千坪単位の家がたくさんあります。
三十年前、いっしょに派遣された留学生のひとりがミシガン大学のビジネススクールで学びました。1974年のはじめに彼から電話があり、マスターを終えたあとドクターに進まないかと大学からすすめられている。自分もすすみたいがどうすれば良いだろうか。


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長女と次女の頭の形
ゆうきんママがうまれたとき、私はうつぶせにして寝かせるように主張したのですが、くみちゃんは窒息するのが恐いと言って仰向けで育てました。半年たったら、絶壁あたまのアンパン嬢ちゃんのできあがり。バンクーバーのホームドクターが、なぜこんな頭にしたのだとくみちゃんを叱ったものです。それごらん、ってなものです。
ドクターから言われたので次女の絵里はうつぶせ育児。おかげでカッコのいい頭になりました。頭の形に体もついてくるのか、大きくなるに従いスラリとした子になっていきました。絵里、ドクター清水に感謝だぜ。
ゆうきんママも今では均整のとれた女性となり、ゼッペが分からなくなっていますが、三十年前は不憫なことをしたと心が痛んだものです。


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姉妹はライバル?

次女、絵里がうまれたとき、ゆうきんママは二歳になろうとしていました。私は全く知らないのですが、病院からくみちゃんと絵里が家に戻ってきたときに、ゆうきんママはワッと泣き伏したそうです。おもしろいですねえ、ライバル?が現れたのが本能的に分かったらしい。

ほかにも同じような逸話があるのですが、私は目撃していないので省略です。

私自身は四人兄弟の一番上ですが、弟妹に対して嫉妬を感じた記憶が全く無いので、わが子らの心理状況を面白く感じます。



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エリンモア

このところ過去モードに入れなかったのですが、昨日ショッピングセンターでタバコやをみた途端にワープ。エリンモアというパイプたばこを買いました。

以前にも書いたことがある経済学部に留学していた降旗氏宅に招かれたときに彼が手にしていたのがパイプ。実はバンクーバに着く前、ロスアンゼルスで海泡石のパイプを買い、結婚の仲人をしてくれた方に送ったことがあり、そのとき自分もパイプをはじめようと思っていたのです。

降旗さんが吸っていたのがエリンモア。アイルランド、ベルファーストのたばこです。あまい香りがただよってきます。わたしもすぐエリンモア党になったのですが、三年ほど前から吸うのをやめていました。久しぶりに買ったエリンモア・パウチは24ドルと驚くほど高かった。とはいうものの最後に買ったときの値段を覚えていないのですが。


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ばらばらになる記憶

次女がうまれたころの記憶がばらばらになってよみがえってきます。もうすこし順序だてて書こうとおもうと筆がすすまない。

長島茂雄オリンピック野球チーム監督が脳卒中のうたがいで入院したという報道をきいて、もしかするとニンゲンは小さな脳内出血をひんぱんに起こしているのかもしれないと考えました。

なにかショックがあると脳のなかで出血、止血がおきる。自覚しない出血はひんぱんにおきているのではないだろうか。風呂で気分が悪くなったときなどは小出血がおきているのかもしれない。出血、止血のたびに記憶機能が混乱する。記憶のみだれはそんなことも原因になっているのではないだろうか。


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ホテル・ジョージアのメニュー・つづき

このメニューをひらくと左うえにGood Morning !とかいてあり、以下果物、パン、主食、パンケーキ、朝食セット、飲み物の6グループにわかれ、計48の料理がのっています。

最初はフルーツジュースで小が40セント、大が60セント。朝食セットで一番たかいのはジュース、小さなフィレステーキ、目玉焼き卵、焼いたトマト、トースト、ジャム、コーヒーのセットで2ドル75セント。1ドルが300円のころですから円換算すると千円近くと三十年前なのにたかいなあという感じがします。

1972年9月2日の朝、ホテル・ジョージアで何を食べたのだろうと思ってみていたら、ハワイアン・ハム・ステーキのところに青インクで*がつているのに気がつきました。2ドル35セント。どうやら主食のなかで一番高いものを食べたようです。いまだったら1ドル60セントの燻製ニシンか1ドル70セントのアラスカ鱈のむしやきを注文する。あの頃は燻製ニシンの味を知らなかった。そういえばこのごろホテルでおめにかかったことがない。おかゆと一緒にたべるとじつにうまいのです。


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ホテル・ジョージアのメニュー

1985年秋から2001年の暮れまで16年にわたって日本とカナダと両方に住まいを構えていたため、おなじようなものをダブってもっていました。家具、家電、文具、履物、きもの。1970年以来愛用している広辞苑も二冊。

余分なものはおおかた処分したつもりでしたが、藤沢とトロントから北バンクーバーの家に運ばれてきた荷物は多すぎて、箱の山が車庫から家の中に収まるまで一年ちかくかかりました。家のなかから箱が片付くまでさらに時間がかかりましたが、日常品は使えるようになりました。

問題は書類、資料などが入っているやく三十個の箱。小さな書斎のクロゼットに、見た目はきれいに収まっていますが中身がわからない。ここの生活も三年目に入りいつまでもこれではいけない。二週間前からひとつずつあけて整理しはじめました。

七箱目のなかにホテル・ジョージアのメニューをみつけました。表紙に1972.9.2と青インクで書きこんでいます。バンクーバーに着いた翌朝にはいったのがコーヒー・ガーデンというところだったことがわかります。アメリカについてから行く先々のレストランでメニューを貰っていたことを思い出しました。



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今ごろの気分

月のはじめに書いたようにあっというまに二月が終わります。ことしは閏年だからもう一日ありますが、それでも早い。

早く過ぎるからか、冬眠にちかい心身が春にむけて活発になるからか、それとも受験の季節だからか、なにかせかされているような気分になることがあります。

三十年前のいまごろは普段のレポートや小テストのほかに卒業論文作成のプレッシャーの日々。それからさらに十余年さかのぼると大学受験準備。昔のプレッシャーの後遺症が大きいのかもしれません。

学校のコンピュータ・センターにパンチカードの束をもちこみ明け方までランさせていたときの気分は思い出したくないけれど、こんなこと書いているうちによみがえってきました。

カードにパンチした何千という孔がひとつでも間違っているとアウト。まちがった孔をさがすのは単純で、時間がかかり、みつかってもつまらないことに時間をかけたという思いがして達成感というものがまったくない作業でした。まあ、いきているあいだに、ヤッターと叫びたくなるような達成感を感じることがたびたびあるわけではないでしょうが、パンチカードの作成や間違い孔探しは二度としたくない。



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スーのわかめスープ

産後の体力回復にはこれが一番良いといってケレメオスコートのスー・オムがわかめスープをたくさんつくってもってきました。わかめスープは韓国料理店でたべたことがありますが、スーのつくったものはこくがあって、わかめもドロリとしていてくらべものにならないくらいおいしかった。

そのごもオム家でなんどかごちそうになるのですが、いつも絶品。自家製キムチも良い味でした。今ごろ気が付いたけれど、レシピを教えてもらう価値がある味です。


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次女命名

ゆうきんママの名前は英語圏のひとには少々発音しにくい、しかもマキとかマイとかいうようなしゃれた名前ではありません。マキやマイは親戚、友人のこどもたちに何人かいる人気の名前ですが、ゆうきんママの名は地味です。

次女は自動的にカナダ国籍を得るので英語にもなり、しかもおしゃれな名前にしようと思案。いろいろ考えたすえ絵里としました。英語ではEllie。絵のように美しい里でうまれたという意味もこめています。

Eileen、愛隣、愛利もかんがえたのですが日本語らしくないので没。まり、Maryは友人の娘さんが使っているので没。

当時「理」ではなく「里」としたのはユニークでセンスがよいとほめた人がいました。いまになってみるとそんなにユニークかなあと思いますが、そういわれてまんざらでもなかったのを思い出します。

最近、永住カードの申請をしたとき、付属書類に次女がEllieのほかにEriという綴りも使っているのがわかり、ややこしいことになるかなと思いましたが何事もなく通りました。


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次女誕生

グレースホスピタルに入院して数時間後に次女が誕生。1974年1月27日。病院にいくと看護婦が親子とも順調だが、赤ん坊は寒がっているので特別室にいれているといってガラスでへだてられたつれていかれました。白衣を着させられ中にはいり眠っている次女をだきました。

この頃は留学生三人の家族でベビー誕生。最初がフランスからきたピエールたちのところで女子誕生。みせてもらうと頭髪がまったくないのでびっくり。当人達は平気な顔をしているので、白人は生まれたときは頭髪がないらしいと分かりました。

次女はとみると頭髪が無いというのではありませんが長女のときにくらべて少ない。体重は多い。水のせいなのかといぶかったものです。


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事故届

その日は病院と寮の往復でおわり、翌朝カミインシュランスという日系の保険会社に電話しましたが、バス相手だとほとんど勝ち目がないといいます。これで修理費の一部は自己負担になります。

授業へいく途中、すなわちキャンパスのなかでパトカーが駐車しているのをみつけたので時間の節約とばかり、警官に事故を届けたいと言うと、パトカーの助手席に座らされました。

バスにあてられたというと、なぜすぐに届けなかったのだと詰問調。二十四時間以内に届ければ良いはずだがと思いましたが、出産準備で時間がなかったというと急に態度がやわらかくなったのを今でもあざやかに思い出します。身長二メートルちかい中年の警官でした。



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バスと接触

1974年1月27日、次女がこの世に出てきます。くみちゃんはぎりぎりまで家で家事をしており、病院へ連れて行ったのは出産数時間前。グレイスホスピタルという病院、優雅な大邸宅という風情でした。いまはありません。

入院させ家にもどる途中バスと接触事故をおこしました。ダウンタウンにちかい東へイスティング通り。二車線のひだり、すなわちセンターラインよりのレーンを走っていたのですが、右からバスが入ってきて接触。発進したばかりの大きな車体がベガの右がわをがりがりとこすり停車。

バスからでてきた運転手は私がわるいと言います。ひとの車に体当たりしてなにをいう、わたしのほうが前を走っていたではないか。停留所でみていた若い男性に同意を求めると、運転手を私の顔をみたあと、私が悪いと云いました。驚いて、ご覧、この位置を、バスがわるいに決まっているではないかというと目をふせて、よくわからないがバスは悪くないと言いました。白人同士の阿吽の呼吸を感じたものです。

このへんのやりとりは三十年たっても腹がたつなあ。そういう状況で理不尽なことを主張する厚顔無恥の白人はけっこういるものです。そういえばあの若者、ジョージ・ブッシュに似ていた、というのは嘘。



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ケレメオス・コート2

テイ・オムの奥さんスーは日本そだちで韓国語はだめ。テイは日本語がだめ。でもって夫婦の会話は英語。息子さんユーシクも英語です。したがってユーシクとゆうきんママはかたことの英語で遊んでいました。まあ、こどもは言葉が通じなくても、犬のように走りまわっていればいいのですが。

オム家の車はフォルクスワーゲン。私のベガとおなじくらいランクのひくい車で、エンジンの騒音はひどいものでした。家計状況はわたしたちより余裕があるようで、居間には韓国製のりっぱな家具があり、やがて玄関口におおきな冷凍庫がおかれました。テイが釣ってくる魚を貯蔵しておくためです。

そのうちフォルクスワーゲンがなくなり、ボックス型のおおきなアメ車になりました。いわゆるRVですが当時はRVということばは使われていなかったような気がします。やがて生まれてくる子供を考えてのことだろうかとおもったのですが、実はこのころテイは密かな計画を進めていたことがあとになって分かります。


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ケレメオス・コート

タウンハウス群のなかでキャンパスに一番ちかいのがケレメオス・コート。ここにビジネススクールの同級生テイ・オム家族がいました。オムは厳と書きます。韓国、三星グループから派遣されていて私とほぼおないどし。統計解析ゼミをとっている五人のひとりで、交通関係の論文を書こうとしていました。

オム家の長男、ユーシクはゆうきんママより少々おにいさんで英語もかたことながら話し、カーペンターズの「シング ア ソング」をうたっていました。

オム家がケレメオスコートにいるのは三月に第二子が生まれる予定だったからです。



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レベルストーク・コート・2

今日は春のような一日でした。昨日まで鉛のようなどんよりとした海が一転、群青色に輝いています。温度は十度をこし、ジョガーの数も十倍くらいに増えています。啓蟄(けいちつ)にはまだ日がありますが、三寒四温の時期になったようです。

レベルストークを見に行きました。昨日書いたことの訂正箇所:内庭を囲んで十軒くらい⇒十五軒ありました。そしてレベルストーク・コートには内庭がふたつありました。そこにも十五軒のタウンハウス。

もうひとつ訂正:我が家のリビングルームの前にある庭の向こうはすぐ道ではなく、幅が数メートルの林がありました。だから道はリビングルームから見えません。道の向こうに森があったのは確かですが、今日見ると森はきりひらかれて、新しい寮、託児所などがたくさん出来ていました。

ケレメオス、サルモ、オーヤマ、レベルストークと四つのコートがありました。全部のコートを見てこなかったのですが、それぞれが三十軒を擁しているようです。

みていて思い出したことがひとつ。子供が三人以上の家族用にベッドルームが三室あるところもあった。



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レベルストーク・コート

アカディアパーク家族寮のタウンハウスは十軒くらいが中庭(コートヤード)を囲み、○○コートという名がついています。そういうコートが数箇所あります。(正確な数を調べてみます)

私たちが住んだのはレベルストーク・コートの奥まったタウンハウス。一階に十五畳くらいのリビングルーム、水まわり、二階にベッドルームがふたつ。りビングルームの前庭のむこうに道路、森。

恵まれた住宅で、これからもこういう家に住むチャンスはないかもしれないと思ったものです。実際には海外勤務でもっと広い社宅に住むようになるのですが、日本の平均的住宅からみたら素晴らしいものであったことは確かです。


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次女誕生前後

アカディアパークの家族寮はベッドルームが一部屋の高層ビルと二部屋のタウンハウスの二種類があり、家族数が四人になると二部屋のほうへ移る事になります。

1974年1月に第二子誕生の予定となり、タウンハウスへ引越しました。これでバンクーバーにきてから住む場所は六ヶ所目です。ホテル・ジョージア、YMCA、ウオルターゲージ独身寮、クリスタルコート、アカディアパーク高層アパート、アカディアパーク・タウンハウス。

同じ町で一年間に六ヶ所うつり住むというのはギネスブックものではないでしょうか。


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遅まきながら

あとひとつだけ1973年のクリスマスのことを書いておきます。

同級生、ジム・グッドの両親の家のクリスマスに行くと、ゆうきんママはプレゼントをふたつもらいました。ひとつは長さ二十センチ、幅五センチほどの白い毛皮。これを左腕にのせ右手でさすると生きているかのように飛び跳ねる。びっくりしましたが、なれると面白い。

もうひとつは手作りのピエロ。身長二十五センチ。三角の帽子、丸い顔、ボタンの目、長い手足。ゆうきんママはこの人形が気に入り、しゃぶっていました。あまりしゃぶるので、翌年帰国するころには人形の顔はすこしすれて薄汚くなっていましたが、それでも離そうとしなかった。

やがて興味を示さなくなり(それはそうでしょうが)味のある人形なので私が保管することにしました。二年前、引越荷物の中に入れたはずなのですが、見当たらないのはどうしたことか。



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