木霊の宿る町TOPページへ            
過去⇔現在を行ったり来たり・ときどき未来へも@バンクーバー 

うまい水・神戸・バンクーバー・ホープ

ブリティッシュコロンビア州のなかでバンクーバーの北にあるウィスラーと西にあるバンクーバー島は訪れていましたが、今度の旅行は東へ進みます。

何処に行っても緑の多いところだというのは同じですが、今度は「何処にいてもきれいな水が沢山ある」という印象を強くもちました。車を運転していると大小さまざまな湖が現われてきます。

子供の頃、世界の船は神戸に立ち寄りうまい水を補給するのだという話を聞いて、水にうまいまずいの差があるのだろうか、もしそうだとしたら良い水に恵まれている日本人は幸運だと考えたことがあります。

留学する直前まで大阪の枚方(ひらかた)というところに住んでいましたが、ここの水はとてつもなく不味く、ろ過装置をつけましたが効果がなく困りました。そのうち枚方の水源である琵琶湖や川が汚染されていることに気づき、この水を生まれてからずっと飲んでいるゆうきんママの健康が気になり、どこか水のよいところへ移ろうと決心。バンクーバーの水は手がしびれるほど冷たくて、口に含むとなにかあまいような感じがしてとてもうまかったのでニンマリでした。

そんなことを思い出しながら走って二日目に着いたのはホープという人口三千人の町。夕刻、ここに住む日系カナダ人のお宅のバーベキューパーティーに招かれたのですが、その家の奥さんが云うには、ホープの水はうまい、バンクーバーの水は不味くて飲めない。聞いてびっくりしましたが、なるほどホープの水は一段とおいしい。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
UBCの音楽堂・音の違和感

三十年前、ときどきアジアセンターというところに行き、ひとつき遅れの日本の新聞を読んでいました。アジアセンターの近くに芸術学科の校舎と音楽堂がありました。蔦のからまった小さな建物。

本日その音楽堂の中にはじめて入り、ピアノ、バイオリン、ビオラの演奏を聞きました。客席が300弱。舞台には小ぶりのパイプオルガンがあります。ラベルのボレロを二台のグランドピアノで演奏しましたが、右のピアノの音がカンカンしていておまけに口笛のような音まで聞こえます。

ボレロは中学生の頃から好きな曲ですが、今日はピアノの音が旋律をかなでるだけの曲としか聞こえず、自分の感性がひからびたのか、それとも音楽堂の音響効果がわるいのか、演奏が悪いのか、耳が悪くなったのか、などなど考えていました。

実はここ数日右の耳がおかしく、電話を右の耳できくと割れたような音が頭の中で響きます。自分で話す声も響く。音をよく聞き分ける良い耳を持っていたのだ、加齢によりその耳も衰えていくのだなと気が付きました。



| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
冬から春へ

バンクーバーの冬は雨期です。しとしと降る雨なのでかさをささないで歩く人が多く、Pもいつのまにか雨にぬれるのが平気になりました。

四月には二学期の最終試験が二週間にわたって行われます。準備のために一週間ほど寮に閉じこもりました。一歩も家をでずに勉強です。

一週間後キャンパスに行ってみてびっくり。すっかり様相がかわっていて山桜の花のさかりが終わりかけており、代わりにもっと赤い桜や白い花が美しいミズキがこんもりと大きな色のかたまりになっています。芝生には深紅のチューリップをはじめ、よくもこんなに多くの花があるものだと感心します。ミズキはブリティッシュ・コロンビア州の州花。雨にぬれて歩いていた時と違って、人々の表情も生き生きしています。



| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
カナダ人の愛国心・カレン・マグヌッセン

火曜日に書くつもりでいたことです。

アメリカは常時戦争と関わっているためアメリカ人の愛国心は単純かつ荒々しいのにたいし、カナダは今回ブッシュ戦争に反対したことからも分かるように外国との戦争で愛国心をあおることがない、といえます。自然界と人知とがうまくバランスするような生活へ目が向いていて、愛国心というある意味で遅れた概念に酔うことが少ない。

1973年3月。カナダ人は興奮していました。カレン・マグヌッセンという二十歳のフィギュア・スケートが世界選手大会で優勝したからです。アメリカのジャネット・リンが可憐な雰囲気をもっているのにたいして、カレンは大根足、ぼってりしていてあかぬけたところがない。当時のカナダ人女性の平均的な雰囲気。

テレビでは試合のはじまる数日前からカレンの演技が繰り返し映されました。試合でジャネット・リンは転倒しますが、アナウンサーが、良かったという気持ちを押し殺そうとしているのが分かります。カレンの演技が終わって点数がでると、「あっ、アメリカのジャッジが低い点をつけました」と口走る。

1965年2月15日に新たな国旗を作ってからようやく八年のカナダでした。三十年後のいまでもフィギュア・スケート、アイス・ホッケー、カーリング、などでカナダが活躍すると国旗を振り、興奮する愛国者が町にくりだしますがどぎつい感じはありません。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
為替で儲ける・固定相場と変動相場

円とドルの為替差が変動することを利用してお金を儲けることが出きるということは大概のひとが知っています。 

1ドルを持っている人が、1971年にその1ドルを円と交換したら360円になりました。2003年にその360円を使ってドルに交換すると3ドルになります。1ドルが3ドルに、即ち3倍になったのです。

しかし、1971年に1ドルを銀行に預けて、利息がついて2003年に3ドルになったとしたら円に換えなくともおなじです。

30年という長い期間でみると為替の儲けと利息の儲けのどちらが大きいかは、30年たってみないと分かりません。 しかし、30年ではなく3ヶ月で考えると利息の儲けより、為替の儲けのほうが大きいことが、ままあります。逆に儲けではなく損をすることもあります。

ドルに対する信頼感が多くのひとからなくなり、ドルが安くなる運命にあるとしても、固定相場を維持するのが政府の意思であれば、政府は円を使ってドルを買います。

政府がドルを買い続けるとわかっている人はドルを売って円に換え、ドルの価値が下がるのを待ちます。そうやって大もうけをした人、会社は沢山あります。

変動相場でも同じです。ドルを円に換えて待つと儲かることがあります。しかし、変動相場制の場合は
ドルが高くなることもあるので必ず儲けられるとは限りません。

以上の仕組みは大概の人が知っていますが、大概の人は為替をつかって儲けようとはしません。損をするかもしれないし、たとい為替で儲けても銀行利息より小さいもうけかもしれないからでしょう。しかし、Pはかなり為替の動向を予想してドルを買ったり売ったりして、愉しみました。




| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
火曜日に考えたこと・日本のインフレ

土曜日はゆっくりしますが、日曜日からはまた勉強の連続です。新学期になり国際ファイナンスをとっていますが、pの職場で実践や勉強をしていたことなのでモーリス・レビという若い先生とおおいに意見を戦わしました。現場の体験がなく学校で学んだだけのレビを追い詰め困らせたこともあります。

火曜日になると勉強モードたけなわになっていますが、その一方で一ヶ月遅れで図書館に届く日本の新聞でインフレが進んでいるというニュースを知ります。会社へのレポートのなかでこういうことを書いています。1973年3月3日付けレポートです。

日本のインフレを考えると一日でもはやく固定為替相場(日銀がドル・円レートを維持するために大量のドル買いをする⇒日本国内の流動性が増大⇒インフレ進行)をやめさせたい。固定相場制ではボロ儲けが可能だが、この儲けはミクロ経済に限った儲けであり、マクロ経済でみると、富の偏在、摩擦の増大など人心を惑わす張本人にしか過ぎず、日本全体としてはマイナス。

レポートを書いた半年後、1973年10月末、大阪千里ニュータウンで主婦200人がトイレットペーペーに殺到します。これを機に日本中に「物不足」のうわさが広がり、洗剤、砂糖、塩、灯油などの買占め騒ぎが翌年二月まで続きます。レポートで書いた人心の惑いの頂点でした。広告をみると不動産の値段がどんどん上がっています。留学を終えて日本に帰ったときは家を買うことが出来ないだろうと覚悟しました。カナダの不動産を買うことになった一因でもあります。

レポートの三年後、1976年1月、ジャマイカで開催されたIMF(国際通貨基金)暫定委員会で変動相場制度が認められます。



| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
カナダの愛国心

愛国心ということばはプラスの産物もマイナスの産物も生み出す魔法の言葉です。たとえば、愛国心があるから国を大事にし、山や森を守り、家をきれいにしようというのがプラス、愛国心があるから外国を侵略して何かを盗もうとするのがマイナスの例。

ブッシュのアメリカや戦前の日本は愛国心をマイナス方向に使い戦争に走りました。

カナダはどうでしょうか。ブッシュ戦争に反対したのがカナダです。政府も国民も反対しました。そういうカナダ人をガッツがないと叫ぶアメリカ人がいますが、単純というかバカというか、まあ、そんな人種です。

カナダ人の愛国心はスポーツ、芸術の向上、よき街づくり、自然環境への想像力へと向うプラスのそれ、国を愛し、そこから更にもっと広い世界を愛すという、プラスの愛国心です。

三十年前のカナダの愛国心を書こうと思いながら脱線しましたので、この続きはまた明日。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
ウイスラー

三十年前のウイスラー・スキー場はリフトの数も少ない静かな山で、日本人のスキーヤーはいません。ホテルもありません。

1985年、十年ぶりに滑ったウイスラーは様変わりで、リフトの数は増えているし、ビレッジが出来てホテルまであります。この変化をみてPはウイスラーがこれかもっともっと有名になるだろうと思いました。ティーンエージャーのゆうきんママをはじめとする我が家の子供たちが大きくなったときに自分たちで来るに違いないと思ったからです。

ここに日本のホテルを建てましょうとホテル会社、商社、建築会社に声をかけ、ゴンドラのすぐそばにある土地を買おうというところまできました。中心となるホテル会社の本社からも調査隊がきました。そうこうするうちにPはトロントに転勤し、そのまま計画は消えてしまいました。

それから又15年がたち、そのときのホテル会社が進出することになります。無論あのときの一等地には別なホテルが建っており、関係者は悔しがっていました。

2010年の冬季オリンピックを招こうとしているウイスラー、ますます世界中からスキーヤーが押し寄せてくるでしょうが、う〜ん、三十年前の静かな山が懐かしい。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
土曜日

三十年まえの世界に戻ると当時の緊張した日々が甦って来ます。日記も難しい内容になっています。しかし本日は土曜日、少々肩の力を抜きましょう。

ゆうきんママが生まれるちょっと前、札幌で冬季オリンピックが開かれ、一番人気があったのがフィギュアスケートのジャネット・リン。金メダルはのがしましたが、可愛い笑顔が日本人を魅了し、エキシビションでは唐傘をもってすべったので更に人気が上がりました。

このジャネット・リンはコロラド州の大学の学生。Pはそこの大学にも入学応募し、オーケーがきました。ジャネットに会えるかもしれないと思ったのは事実です。それからスキーも出来るだろうと考えました。しかし、そういう邪悪な動機で留学するのはいけないと考え直し、しかしスキーはしたいという思いがあってカナダの大学を選びました。

新学期になり余裕ができ、週末になりウイスラー・スキー場に行くと学友たちも来ていました。空いていて日本人はひとりもいない山でした。ゆうきんママはケーブルカーの近くにあるベビーシッターに預けました。戻って来ると、ベビーシッターから、この子は泣きっぱなしで大変だったとこぼされました。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
ラバダッキー

ゆうきんママと一緒にみていたテレビ番組がセサミストリート。このなかに出てくる唄の一つがラバダッキー。お風呂で浮かせて遊ぶアヒルのおもちゃです。

時代は為替固定相場制度から変動相場制へと変わる頃。1971年夏ニクソン大統領がドルと金の交換義務を停止し外国為替市場は混乱します。Pも混乱に巻き込まれる職場にいたため忙しくて昼飯を食べられないことがありました。いったん変動相場制になった為替市場が暮れになり固定相場制にもどり1ドルが308円になります。

しかしアメリカドルを切り下げたいという意思が強く働き、1973年二月に主要先進国は変動相場制に移行します。留学して半年たった頃です。

変動制度になりアメリカドルは円やドイツマルクに対して安くなっていきますが、カナダドルはアメリカドルに対してほとんど変動しません。カナダドルに対してもアメリカドルを安くしたいニクソンが苛立ちます。シュルツ国務長官(日本で云う外務大臣)はカナダ政府に対して為替市場に介入しないことを望むという声明を出しますが、効果ゼロ。それをあらわした漫画がありました。
 
ニクソン大統領が風呂に入っている図。アメリカドルと書いてあるラバダッキーとカナダドルとかいてあるラバダッキーが浮かんでいます。ニクソンはカナダドルあひるに向って、上がれ、こんちきしょう、上がれと叫びます。カナダあひるは同じ風呂にいるアメリカあひるより上がるわけがないでしょうと涼しい顔をしています。

変動相場は英語でfloating systemと言いますが、float=浮かぶにかけた傑作漫画でした。

たまにカナダドルがアメリカドルより高くなりますが、そうするとカナダ人はほとんどガソリンがほとんど入っていない車でアメリカへ行き、満タンにして帰って来る。空のゴルフバッグをもちこんで帰りには新品のセットを入れてくるというようにアメリカで買い物をするようになり、カナダ経済が苦しくなります。

三十年後のいま、カナダドルは下がり、1カナダドル=0.70アメリカドルです。アメリカ人がカナダにくればホテル代も割安感があり、逆にカナダ人はアメリカで割高感を感じる時代です。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
小型車のランク

以下は三十年前の Consumers Reportnで発表された小型車のランクです。

上級:トヨタマークll、ダットサン510、フィアット124
中級:ベガ、コルト、オペル、コロナ
下級:クリケット、カローラ、フォルクスワーゲン3
最下級:グレムリン、ダットサン210、ピント、プジョー、フォルクスワーゲンスーパービートル

一年後にリコールされることになるベガが中級にランクされています。

三十年後のカナダで売られていない、或いはブランドそのものが消えた車は以下です。
トヨタマークll、ダットサン510、フィアット124、ベガ、コルト、オペル、コロナ、クリケット、フォルクスワーゲン3、グレムリン、ダットサン1200、ピント。もうすぐホンダシビックが登場します。

スズキ、ホンダ、カワサキ、ヤマハなど日本製オートバイは既に高く評価されていました。女性ライダーも沢山いました。そういえばひとつきほど前、浜えいすしで隣に座った五十過ぎとおぼしきご婦人ライダーが1300CCのBMWに乗っているといいましたが、三十年前のことを聞いてみればよかった。



| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
テレビ番組・理想と現実のねじれ

白黒テレビでみたのは政治番組だけではありません。食事時にはクイズ番組や映画が流れていました。

毎週ソニー・アンド・シェーという音楽番組があり、いつも最後には自分たちの小さな子供を抱いて「ベイブ」という唄をうたっていました。ちょっとバランスのとれない夫婦だなと思って見ていたのですが、案の定その後離婚し、シェーは独演会や映画で活躍、ソニーは政治家になり、スキー事故でなくなります。

車にのるとラジオを聞きます。既に世に出ていたロバータ・フラックはこの年にKilling me softlyで一段と人気が高まり、翌年にはカーペンターズのSingが毎日流れるようになります。これまた後に悲劇的な死を迎えるカレンの姿が可憐だった。子供のマイケル・ジャクソンは小さく、真っ黒な顔が明るく輝いていて、今の姿はとても想像できません。

ロバータ・フラックのイメージは大きく変わらずなんとなく安心感を覚えますが、その彼女は「私は時を示す音楽を歌いたい、ポピュラー音楽の柔軟性を重視している」と語っています。時代とともに音楽は変わるということですが、音楽は変わっても彼女の芯はぶれなかったのではないでしょうか。時代の変化に幻惑されて自分の芯がぶれてバランスを失う人は多くいます。

当時はまだまだメジャー(白人)からマイノリティー(黒人ほか有色人)への不当な扱いがかなりあからさまに残っていた頃です。そういう現実とアメリカが標榜する理想とのねじれ現象の本質は今も変わっていませんが、時代時代でその姿は変えてゆき、富と名声を誇る歌手たちのみならず様々な世界の人を翻弄し、時にはメジャーに属するひとたちも犠牲者にしたてあげていきます。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
テレビを借りる

三十年前のバンクーバーでテレビを買うと日本で買うのに比べて大変割高感がありました。当時は日本の物価がまだまだ安かったのです。その後日本の物価はどんどん高くなり、デフレの今でもここから見るとまだまだ日本の物価は高い。これは為替のせいもあるでしょう。目下は1米ドルが約120円ですが、一般消費者の物価を考えると1米ドル150円でも円が高いかもしれません。

三十年前は1米ドルが300円。カナダドルはさらに高かったのでテレビも円に換算すると高くて手が出なかったのです。

テレビのレンタル屋がありましたが、外国人、おまけに学生だということで信用がなく貸してくれません。交渉を続けてようやく借りたのは白黒テレビで、しかも調子が悪く一つの局しか見られません。

ベトナム戦争の泥沼で苦しんだリンドンBジョンソン大統領が亡くなったときの特別番組に外交担当の大物たち、ラスクやハンフリーがでてきたのを興味深くみたものです。キッシンジャーもよく登場していました。

テレビの借り賃は三ヶ月で29ドル、約9千円でした。同じころに電話もつきました。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
新学期はじまる

一月三日から新学期が始まりました。一学期から続いている会計学のほかに、ビジネスファイナンス、数学3、統計学、国際ファイナンスに参加しています。

統計学を除いた四科目はクラス討論の点がつきます。マーケティングで不合格店をとった討論、今度は積極的に発言を心がけています。口が凍らないよう、小学校のときに戻り、とにかく手をあげています。

全科目に中間テストと最終テストがありますがこれは教科書、ノートなどの持込みができるので気楽です。

国際ファイナンスを除く四科目は毎回宿題がでます。数学、統計学以外の三科目はリーディング・アサインメントという宿題があり、膨大な資料を読まなければいけません。ビジネスファイナンスと国際ファイナンスはレポートがあります。レポートは時間の許す範囲で書き上げればよいのですが、リーディングはどんなに時間がかかっても読み終えないといけないのでやっかいです。

朝三時まで勉強をして、八時半開始の授業のある日以外は九時頃に活動開始。一学期に比べると少し余裕があります。土曜日は勉強をせずスキーをするという目標をたてました。



| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
第一学期の結果

四月二十五日に「第一学期の感想」を書いたあと、アメリカ出張が続いたため意識が三十年前に戻らないまま五月が過ぎました。心機一転を目指しましょう。

一月になり第一学期の成績が発表されました。
組織論:合格者39人。不合格者不明。合格平均点78・最高91・最低68・Pは78で平均点と同じ。三回のレポートの一つを遅れて提出したこと、英語の表現力が要求される科目であることを考えると予想以上の成績です。学期のあいだ、なんども不合格を覚悟したものです。

マーケッティング:合格者46人。不合格者不明。平均点75・最高91・最低60・最低点をとったのは五人で、Pはその一人でした。二回目のレポートが遅れ二割点数カット、クラスディスカッションが55の不合格点。60〜65点は条件付き合格で3単位までは認められます。マーケッティングは1,5単位ですので余裕はあと一科目。65点以下の科目が3単位を越すと自動的に退学です。

数学1:合格者33人。不合格者16人。平均75・最高100・最低66・Pは92。一番はフランス人、二番中国人、三番カナダ人、四番はPともうひとり、一番の奥さんでした。一番のフランス人は英語も下手で目立たない学生でしたが一躍注目を集め、出来のわるいカナダ人学生が彼の隣に座り宿題のつきあわせをするようになりました。Pに聞きに来る学生もいます。二番になった中国人はすでに経済学修士を取っていました。ふたりとも博士課程に進み大学の先生になりました。

数学2:合格者31人。不合格者16人。平均90・最高98・最低70・Pは92。平均90は信じがたい高さです。

僅か四ヶ月の一学期でしたが、日本の受験時代以上のストレスがつづき悪夢を良く見ました。日本の大学受験でPは一年浪人したのですが、夢の中では三年浪人をやっていて実に嫌な気分です。将来は留学時代の夢を見るのではないかと思ったのですが、三十年間いちども見ません。


| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:13 | - | trackbacks(0) |
アパート探し
11月3日に家族(妻、娘)が来るので、その前にアパートを探さないといけません。
大学の家族寮の利用を日本から申し込んであったのですが、空きが少ないというので入れません。インターナショナル・ハウスのカウンセラーに相談すると、Bug them といわれました。Bugは「虫」だと覚えていたのですが、「しつこく悩ませる」という意味があることを知りました。
いわれるまま三日に一度は係官のところに行きました。申し込み数500に対して空きは2部屋、Pの順位は下のほうだといわれたので、町のアパート探しも並行してやりました。
学生、子供がいる、アジア人というのは借り手として望ましくないようで、次々と断られました。大学の近くをあきらめ、ダウンタウンの値段の高いアパートと契約したのは探し始めて三週間後、レンタカーの走行距離は800キロ近くになっていました。東京ー広島の距離です。
アパート代は200ドル。月給の三分の一でした。当時の為替レートは1ドル=300円ですから、200ドルx300円=6万円です。三十年後のいま同じようなアパートを借りると1,200〜1,300ドルくらい。6倍ですが、カナダドルのレートが下がっていて70〜80円。従って日本円換算だと9〜10万円。僅か1、5倍です。
車を買っていなかったので十月はほとんど寮に住みました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
Pの車・続き
ロスアンゼルスにいるPの同期生たちは3000ccクラスの車を買いましたが、Pは2300cc。これはカナダのほうが物価高、Pの給料が彼らより少なかったからです。給料が少ないのはPの成績が悪かったからではなく、人事部の決めたシステムがおかしかったからです。担当者に説明したのですが改善されません。それまでの人事部は良かったのですが、わけの分からんのもいるなと思いました。そういう人とつきあっても時間の無駄です。
さて、借金をして買ったベガは一年前のモデルでしたから新車のようなもの。一週間たった雨の日に走っていたら、突如ストップ。道路の端に押していくと、そばを通りかかった学生が車を降りて手伝ってくれました。カナダ人は良い奴が多いなあと思いました。
買ったところに電話するとすぐに取りにきてくれ、ニ、三日で直ってきました。クラッチが擦り切れていた由。良い車だと勧めたセールスマンに電話をしてクレイムした時の答えは忘れられません。なんと言ったと思いますか。こうです。「お前はラッキーだ。一週間無事だった。このまえ買ったご婦人はその日ライオンゲート橋で立ち往生した」
買ったその日に故障したなどとは嘘に決まっていますが、車のセールスマンとはこういう人種なのだと理解できたのは良かったのかも知れません。
そうそう、同期生たちの車はオートマチック・クラッチでしたが、Pは手動クラッチでした。手動のほうがニンゲンと車の一体感が増して面白い、というのは負け惜しみで、手動のほうが安かったからです。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
六号室・Pの車
入寮して二ヶ月後、会社から借金して、生まれて初めて車を買いました。

シボレー製ベガ。外見はセダンですが、ハッチバックといって、ステーションワゴンのようなつくり。流線型で美しい。レンやデイビーから「ジャガー!」とからかわれたものです。

排気量2300ccは日本の高級車トヨタクラウンより上でしたが、シボレイ系では一番格の低い車。エンジンの騒音はフォルクスワーゲン並。ロスアンゼルス支店長がバンクーバーに来たときに「こういう車を作るからアメ車はだめなのだ」とコメント。傷ついたねえ。

コンシューマーレポートにお買い得な車だとあったのですが、二年後留学が終わる頃になって、欠陥車につきリコールするという広告がでて売れず、友人に売却を託して帰国したものです。ほどなくベガの製造は中止されました。

あれから色々な車を買いました。トヨタ、フォード、スバル、ジープ、ホンダなど七台。会社の車で乗ったのがベンツ、キャディラックなど四台。三十年間に乗った十一台はすべてベガより性能が良かった。

去年ハイウェイでベガが走っているのを見つけたので、暫くあとをつけました。Pが乗っていたのと同じ黄土色。手入れが良くピカピカ。車体の線は今の車より美しい。また乗ってみたいと思いました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
五号室・レン
レン、白人、経営学部。親は不動産で財をなし裕福です。レンの車はトヨタ・セリカで今まで乗った車の中で一番良いそうです。Pはこれから生まれてはじめて車を買うというのに。レンの家でのパーティーによばれ、セリカで行ったところ途中でガス欠。みんなでガソリンスタンドまで車を押したのも懐かしい。
実家は敷地1500坪、部屋数20、風呂が7室、サウナバス、テニスコート、温水プールつき。リビングルームはバスケットボールができるのではないかという広さ。モーターボートや鉄砲も見せてもらいました。レンは世界中、旅行をしており来年は日本ほかアジアを回るといいます。なるほど、それで変な日本語を練習していたのか。
日本と英国のビジネスの比較をテーマに勉強しているというので、よく質問しにきましたが、Pが北米のブランドを知らなかったと同じく、レンの知っている日本といえば、ソニー、トヨタ、ダッツンくらいでした。
ダッツンというのはダットサン、日産自動車のことで、当時の北米ではトヨタ以上に人気の高いブランドでした。このブランドは日本興行銀行出身のひとが日産の社長になったときに廃止、同時に北米でビジネスを伸ばした功労者たちを会社から追い出すなどしたため、日産は一気に劣等企業になる。再建にはカルロス・ゴーンという外国人が必要だったというのは有名な話です。
Pはトヨタと近い会社勤めだったのですが、ダッツンを廃止するなどは背任行為だと陰ながら思ったものです。ああいう社長にボーナスや退職金を払うのは間違い。甘い。あらら、話が変な方向に行った。
レンは弟のデイビーとよくPを遊びに誘ってくれ、Pが家族寮に移ってからもやってきたものです。いつのまにか連絡が途絶えてしまったのですが、そのうち探しだしましょう。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
三号室・レイ
中国人、歯科医学専攻。クーガーという馬力のあるスポーツタイプの車を乗り回しています。遊びも勉強も精力的にこなすプレイボーイ。町のどこそこが売春婦の溜まり場だという話をしたあと、金をださなくても女はいくらでも手に入ると云い、ある週末の夕方、数人の若い中国人女性をつれてきました。ビールをのんで徹夜し、翌朝競馬に行ったものです。
B Quadの住人は単純な連中ばかりでつきあいきれないといいます。うるさがたのジョンに負けない雄弁家、というより大人の雄弁家で、ジョンがつまらないことを云ってもぴしゃりと押さえ込む。ジョンに苦戦したPとは違いました。歯科医より貿易とか政治とかのほうが向いているのではないかというと、歯科医は確実に儲かるから良いのだという答えが返ってきました。堅実なプレイボーイなのです。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
二号室・サム
サムは中国人、歯科医学専攻。香港出身。プロテスタント教徒で、日曜日は朝早く教会へ出かけていました。
アメリカのテレビ漫画で野良猫をキャラクターにした作品があります。「大将」という頭の良い猫が主人公ですが、仲間に無垢でおっとりとした猫がいます。サムはこの猫に似ていました。
歯科医学専攻のためでしょう、鏡に向って歯磨きの研究おこたりないのはよいのですが、しぶきが鏡にとびちり、こびりつきます。神経質なジョンがたまりかねて鏡に、不潔であるから飛びちらないように磨け、という張り紙をしました。サムはなんのことか分からずきょとんとしていたので、同じく歯科医専攻のレイに、お前のことだよと叱られていました。そういえばレイは「大将」猫だった。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
一号室・ジョン
二月九日から十七日まで日本にいきます。PCは持っていかないので、その間の日記を今日(三月四日)から 書き込んでおきます。

ウオルター・ゲージ寮の九階の B Quadrantの住人五人の紹介です。
一号室のジョン。白人、法律専攻。ありきたりの風貌をした五人のなかでジョンはなんとかハンサムの範疇にはいるでしょうか。高校生の感じがぬけておらず、話すこと、身のこなしにひよわなところがあります。
当時は長髪が流行っていましたが、ジョンはきちんと刈り込んでいます。珍しいねえというと、ああいう髭とか長髪はヒッピーがやることだから自分はやらないといいます。ほお、さすが法学生、将来のエリートさんは違うなと感心したのですが、暫くすると髭を生やし始めました。問うと、いままで付き合っていた女の子が嫌っていたので毎日剃っていたが、その子とわかれたので生やすことにしたといいます。都度の言には説得性があるが、全体のまとまりに欠ける法学生だとあきれました。
授業がはじまり、Quadの仲間は勉強に集中し、リビングルームにでてくるのは夕食時だけですが、ジョンだけは親からはぐれた子犬のようにうろうろしています。Pの部屋をノックするので出て話すとたいした話ではない。勉強が忙しいから又あとで話そう、お前も勉強しろよというやりとりが何度もありました。
ジョンにつきあう時間はない、ジョンは授業についていけない、卒業できても北米社会では成功しない、などと思ったものです。ジョンはwhite anglo saxson protestant いわゆるワスプという北米主流の出なので、案外成功しているのかもしれません。 全体の統一性に欠けていても、その都度の強弁で押しまくるブッシュ大統領のような例もあることだし。あれ、また脱線しました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
なにを要求されているのか分からん
基礎科目のうち数字を使う科目は時間をかけて原理を理解すればなんとか追いついていけるようになり、カナダ人と対等以上の成績をとれるようになりました。
なんともならなかったのがマーケティングのケーススタディーという形式の授業です。毎回資料を渡され、それを読んでレポートを提出するのですが、どういうレポートを要求されているのかが分かりません。資料を一通り読むと、書いてある内容はまあ理解できるのですが、で何をレポートすれば良いの?という感じ。これこれに関して意見を述べよ、という具体的な設問があるのではなく、ただ資料をポンと渡されるだけです。
授業中は早口の先生と学生の間のディスカッション形式で進みますが、内容がわからないので加われません。わかっていても気後れしてダメ。Pが小学生のときは神童クラスの出来の良い生徒で、先生が質問すると、はい、はい、はい、と元気に手を挙げたものですが、そういう役がカナダ人に占有されています。こしゃくなことを云ってる、それは違う、こうだろと思っても、Pの口も手も凍り付いています。クラスでの発言回数も成績に反映されていると分かったのは学期が終わってからでした。
そういうことで、せっかくロスアンゼルスの図書館で準備していたマーケッティングの成績は惨憺たるもので、本コースのマーケティングへ進む気はなくなりました。

あとで分かったのですが、カナダ、アメリカの商品、ブランドの常識がないと手におえない科目だったのです。たとえていうなら三越とユニクロ、ティファニーと百円ショップの差が分かっていれば、目を白黒させることもなかった、そういう科目でした。
先生が良くなかったこともあります。四文字言葉をひんぱんに使うひどい英語に加えて教授法が荒かった。学期が終わると、先生ひとりひとりについて、学生が理解できているかどうかをチェックしているかどうか、理解するように指導しているかどうか、など学生が先生を評価します。それが先生の昇進審査に使われます。Pの彼への評価は最低でした。
卒業してから十三年後にPはビジネススクール理事会のメンバーになりました。見るとマーケティングの先生は全く昇進していません。十年間理事会のメンバーを務めましたが、彼の地位は不動。気の毒ではありましたが、外国人のPでもなんとかなるように指導した先生たちは正教授になっていましたから、仕方ないでしょうね。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
楽になりたい
授業に遅れをとらない、できればカナダ人学生に勝りたいという課題、たてたもののこれが難物でした。
二年間、MBA(経営学修士)をとるコースで学ぶのですが、学士レベルの経営基礎知識がないとMBAコースにはいけないようになっています。ビジネススクールのアドバイザーとの面接を経て基礎科目のなにが免除されるかが決まります。
日本の大学で経営学をやったことがなかったPは、英語だけが免除。線形代数学、確率、微積分、統計学、組織論、マーケティング、会計、ビジネスファイナンスの八科目をマスターしないといけないことになりました。基礎科目だけをとっていては、あとで時間切れになりそうなので、本コースの科目もひとつとることにしました。国際ファイナンス。
授業科目を決めるのは簡単でしたが、授業が始まってから仰天、教室の一番前に座り、集中して聴くのですが、理解できないことが多い。授業中に冗談を言って笑わせる先生がいますが、生徒がどっと笑っても分からないのが殆どで、その途端に疲れがどっとでて集中力がなくなります。どの授業も分厚い教科書や資料をもとにおこなわれますが、進むスピードがはやい。各科目とも一日に何十頁も進んでいきます。何十頁を授業の前に読んでおかないと授業は全く理解できまん。
Pは大学生時代に丸善を通じてぶあつい英語の速読術本をとりよせて訓練したことがあるので、話したり聴いたりする力はともかく、読む力はこちらの学生に負けないと思っていました。ところがギッチョン、ビジネススクールにくるような学生は、みんな速読術をやっている。彼らに勝る力はなにもない。しかもそういう連中の半分を落第させるのが目的であるかのように厳しい授業。
いかに厳しいかを書いてもきりがないので、エピソードをふたつ書くにとどめます。優等生のなかにロイヤルバンクというカナダの銀行から派遣されていた人がいました。彼はレポート、試験ともにいつも優秀な成績をおさめていましたが、卒業寸前に行われる二日間の最終試験で落とされました。あと数日のところまでトップクラスを走っていたのに気の毒でした。Pが留学を終えたあとですが、日本で経営学修士をとったあとにビジネススクールに来た人、英語がだめだったのでしょう、授業についていけずノイローゼになり、寮の建物から飛び降りて逝きました。Pも勉強の合間に寮のベランダから下をみて、楽になるだろうなと思ったことが何度かあります。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
難破海岸
大学がある半島にはダウンタウン近くから延びている長い砂浜があります。キャンパスに隣接している浜だけでも十キロ、江ノ島から平塚近くの長さです。引潮のときは砂浜の幅が一キロ、これは上野公園の端から端までの距離です。

この長い砂浜の一部にレックビーチ=難破海岸と名付けられたところがあります。キャンパスからは急な崖を降りていかないと近づけません。そういう立地なので夏になるとヌーディストがたくさん集まります。体格の良いカナダ人が裸でそこここに寝そべっている姿はトドそっくりです。

のんびりした世界だと思っていたのですが、ほどなく知り合った日系カナダ人のかたから、UBCに通っていた息子さんがレックビーチで殺されたという話を聞き愕然としました。犯人はわからなかったそうです。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
キャンパスを歩いていての出来事
1月13日、14日に書いたことの続きです。

寮から図書館の横を通ってビジネススクールの教室に行くという日課が始まり、路上の落ち葉も少なくなった頃のある日。図書館を目指して歩いていると、三十メートル先を一人の女子学生が横切っています。

入寮の手続きをしようとしていて見つめられた女性、そのときは気がつかなかったのですが、彼女は杖をついていました。足が不自由のようです。あのとき父親らしい人が付き添っていた理由がわかりました。

まわりにひとが少なかったので、こちらに気がつくかもしれないと思ったのですが、彼女は少しうつむき加減のまま目の前を横切っていきました。

アトウッドさんの家で自分がロバートと呼ばれてた夢をみたと書きました。

キャンパスの中にある食料品店に行く途中、十歳くらいの男の子から、ボビー、ボビーと呼びかけられたことがあります。私はボビーではないよと答えたのですが、買い物をしての帰り道、また同じ子に出会い、あなたボビーでしょ、だれそれがあなたのことを探しているよと言います。

ボビーという中国人でもいて人違いしたのだろうと思ったのですが、しばらくして、ボビーというのはロバートの愛称だと気がつき、変な気分になりました。

見知らぬ女子学生からなぜ見つめられたのか、なぜロバートとかボビーと呼ばれたのかをときどき考えるようになりました。この話の続きはいずれまた書くかもしれません。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
美しいキャンパスにもたて看板あり
当時は米国が一時停止されていたベトナム爆撃を再開したり、カンボジア、ラオスへも侵攻した時代。
「変なアメリカ人」で書いたカリフォルニヤ大学・バークレー校は反戦運動が盛んで、キャンパスがたて看板や張り紙で埋まっているという感じでした。
北米一の美をほこるUBC(ブリティッシュ・コロンビア大学)にも反戦運動の看板や張り紙はありました。
しかしそれは食堂やボーリング場がある学生会館の付近に限られていて、図書館、教室、教官室などにはまったくない。
モノがあるべきところにきちんと収まっているアトウッド家と同じで、キャンパス全体に整理・整頓が行き届いていて、それぞれの建物が本来の機能を果たしています。
Pが通った頃、多くの日本の大学は次から次と起きる政治運動のために、看板、ビラが秩序なく置かれ、まかれ、拡声器から気がふれたような声が流れる騒然たる空間でした。
なにかを改善したいという理念から発生した学生運動ではあったのでしょうが、雑駁な理念、乱暴な行動でもって、勉学、研究を妨げてはいけません。
看板、ビラは一箇所に集めること。
全体の美を損なうゴミのような看板に力はありません。
アメリカのベトナム、カンボジア、ラオス侵攻を批判しつつも美しいキャンパスで勉学、研究に努めていたUBCの学生、教師たちは偉かった。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
北米一美しいキャンパス
バンクーバーにある大学を留学先に選んだ理由についてです。

どこの大学が受け入れてくれるかかどうか分からなかったので、アメリカ、カナダの数校に願書を送ったところ次々と入学許可がきました。

はじめは日本で名前が知られているアメリカの大学にしようかと思いました。Pと同時に選抜された四人は全員アメリカの大学を選びました(コロンビア、ミシガン、カリフォルニア、南カリフォルニア)。

少し考えてカナダの大学にしました。決め手は単純。大学案内に北米一美しいキャンパスの大学だと書いてあったからです。

不真面目? そうかも知れません。しかし、そういう選び方をして悪くなかったと思います。 勉強、生活をしていく上で、自分をとりまく環境はどうでも良いという人もいます。汚いところでも楽しく生きることができるひとがいます。

Pは違います。汚い環境を我慢できないことはないけれど、清潔で美しい環境のほうが良い。

のちにアメリカの大学めぐりをしました。スタンフォード、ダートマスなどアメリカにも美しいキャンパスがありました。しかし、もう一度選び直して良いといわれたらやはりアメリカの大学は選ばないでしょう。

知っている限りですが、カナダのほかの大学もここに勝るキャンパスはありません。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 21:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
木霊の宿る町・霧中にひらめく
ブッシュ戦争のことは忘れ、木霊の宿る町を書き出したときの気分をとり戻さないといけません。
九月もなかば、雨が多くなり、日が短くなっていくのが分かります。
日本よりはるか北にあるので短くなるスピードは早く、冬至のころは一日中うす暗い感じになります。
とはいえ九月はまだまだ良い季節です。
日曜の朝。
海からブオー、ブオーと切れ切れに聞えてくる霧笛の低音、前夜散った落ち葉を熊手でかき集めるカサカサとしたという音。
ほかに音はしません。
静かな寮をそっと抜け出し、キャンパスを歩いていくと、まだ木に残っている紅葉が霧の中にぼんやりとみえます。
なぜここには静かなひとが多いのかが分かった、目に見えないスピリットとともに生きているからだ。
みんな口にはださないが木霊とともに生きている、などとひらめきます。
急に目の前にうっすらと広がった対岸の西、北バンクーバーの山影。
それまでは心象的で省略の多い絵だと思っていた墨絵がそうではなく、見えているそのものを描いたのだと分かり、そうか、日本には昔こういう風景があったのだ、自分はいにしえの日本を体験しているのだと再びのひらめき。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
学生寮生活・四文字言葉
今回はfour-letter word=四文字言葉が出てきます。性や排泄物などに関係する卑猥な言葉のことですから、そういうのが嫌いな方はこの先を読まないでください。
Pも好きではありませんが、多小の役にたつことがあるかもしれないと考え書いておきます。
知らなくても良い話です。
同居の六人は休日にサッカーをしたり草競馬場にいったりして仲良くなりましたが、とくに料理のペアとなったレンとは彼の実家でのパーティーに呼んでくれたりしたので親密度がまし、色々な話をするようになりました。
レンはキマジメですが、弟のデービッドが加わるとくだけてきます。
ある日ふたりが自分たちも日本語を知ってるぞというので、どういう言葉だと訊くと嬉しそうな顔でgomangoと声をそろえていいました。
そんな日本語はきいたことないなあというと、そんなはずはない、性交のことだと教わったがと不安そうな顔。
ああそうか、それなら最初のgが不要だと教え、おおっぴらに云う言葉ではないとたしなめると、かえって大きな声で唱和します。
中国人学生までが加わっての大合唱。 へきえきとしたので、そういうのを訊いて日本人が楽しいと思うかいといっても面白がってやめません。
よし、と腹に力をこめ、
「僕がどう感じているかをうまく伝えられるかどうか分からないが」
といってレンの目をみつめ
「おそらく、君がこういわれたときに感じる気分と同じではないかと思う。Fucking Canuck」
といいきるとレンは「Oh,it`s terrible」とつぶやいて絶句しました。
何かの小説を読んで覚えていた言葉で、そのとき初めて使用したのですが効果絶大。
Pより一年はやく留学していた博士課程のひとに話したところ、そういう場合はFuck offといえば良いと教えてくれました。
よく知っているなあと感心しましたが、知らなくても良いのです。
とくに外国語の場合、まともな言葉をしらないが四文字言葉のたぐいに詳しいというのでは人格を疑われるだけだから使わないほうが賢いです。
おや、説教になりましたかね。
読まなきゃ良かったと思っても手遅れです。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:24 | comments(0) | - |
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
<< August 2018 >>


↑BGM(ON/OFFで切替)

bgm(別ウィンドウ)

VANCOUVER

TOKYO


↓木霊が宿る町QRコード↓
qrcode
ページランク

GBL:Googleバックリンク数です
 GIP:Googleインデックスページ数です
 MBL:MSNバックリンク数です
 MIP:MSNインデックスページ数です
 YBL:Yahoo!バックリンク数です
 YIP:Yahoo!インデックスページ数です
緑バー:Googleに於ける木霊の宿る町の人気度です

サーチ:
キーワード:
Amazon.co.jpアソシエイト

このページの先頭へ