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過去⇔現在を行ったり来たり・ときどき未来へも@バンクーバー 

学生寮生活・料理当番
同居の五人は交代で夕食を作っていたので、Pも仲間入りしました。
商学部の白人とPがペアになり、片方が料理、片方が後片付けです。
中国人も白人もなかなかこった料理を作ります。一流レストランででてくるような、きのこ型のパンの中にシチューが入っている料理を出されたときは全員がほめたたえました。
Pはそれまで自炊をしたことがなかったのですが、これならできるだろうとチャーハンを作りました。
具の種類を多目にして丁寧に味付けをしてフライパンで炒り、ご飯は別のフライパンでパリパリになるまで炒って、両方をかき混ぜ、最後に生卵を溶かし込んで出来上がり。
味付けはもっぱら醤油ですが、野菜や肉の味がうまくでるように気をつけ、物足りないときはカレー粉や胡椒で仕上げるとまあまあのチャーハンができます。
料理番がまわってくるのは一週間に一度ですので毎回チャーハンでもみんな喜んで食べてくれました。
あるとき炊飯器に前日のご飯が余っていたので、ちょっと少ないとは思ったのですが、自分が食べる分を減らせば良いだろうと、それだけでつくって出したところ、案の定白人の学生が足りないと云う。
そうだよな、彼らは大食だし、若いし、と内心反省しましたがもう間に合いません。
食事が終わって、少々沈んだ雰囲気でお茶を飲んでいると、突如さっきの白人学生が、お茶を飲んだら、腹のなかでチャーハンが膨らんで満腹になった、驚きだと言いました。
慰めてくれたのか、それともパリパリに炒った飯が膨らんで本当に空腹感がなくなったのか。
まあ前者だったのでしょうね。
その白人学生には十八歳の弟がいて、ときどき寮に遊びにきていました。
マルマルと太っていたのですが、ある日ほっそりした顔つきで現われ、ダイエットをしたと言います。
ダイエットの動機はなんだったのだろう。
ガールフレンドからあなた太りすぎだわと云われた、Pや中国人の体つきや食事の量をみての影響があった、もしかすると、兄から満腹感の話を聞いて試した可能性もあるか、などとつまらない推理をしながら彼らの顔を思い出しています。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
学生寮生活・パジャマ姿の女子学生
ワンフロアーに六人x四=二十四人の学生が住むのですが、男性フロアーと女性フローに別れている。
当初はそう思ったのですが、暫くするとそうではなく、男性と女性が半々のフロアーがあると分かりました。
詳しく調べたわけではないのですが、六人のグループは男女別になっていたようです。
夜中に火災報知器がなることがあり、階段を使って避難しますが、男子学生のほとんどが普段着なのに、女子学生はパジャマ姿で降りてくるのが多い。
Pもそうでしたが、男子学生は火災報知器がなっても、いたずらだろうとタカを括って悠々と着替えるのでしょう。
報知器を信じる女性が素直なのか、それとも非常の際は格好なんかに構っていられないと現実的なのか。
一階のロビーに集まった学生の中で、パジャマ姿たちは恥ずかしがる風もありません。 報知器は週末になると鳴り、またかと思いながら避難するのですが、女子学生のパジャマ姿が減ることはありませんでした。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
学生寮生活・建物
大学一、ニ年のときに学校の寮で生活したことがあります。
昔は高等学校だった建物を、第二次戦争中に兵舎として使ったのが、そのまま大学の寮になったものでした。
六畳くらいの部屋に、つくりつけの二段ベッドがあって八人が寝るようになっていました。
もう、そういう狭いところで寝る自信はありません。
その寮にくらべると留学先の学生寮は数段立派なものでした。
ウオルター・ゲージという当時の学長の名前がついた高層の建物で、ワンフロアーが四つにわかれており、それぞれに六寝室、六人共同のリビングルーム、台所、洗面室があり、清潔で機能的なつくりになっています。
寝室は個室で造りつけのシングルベッド、机、本棚があります。
Pが荷物を運び込んだときには五人の学生が生活をはじめていました。
白人がふたり、中国人が三人。
白人は商学部と法学部の学士過程、中国人はいずれも歯科医の大学院過程でした。
Pを除いて全員独身でしたが、週末になるとひとりの中国人の部屋に女性が訪れることがありました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
まちの明かりは青かった
一月十日の題です。
あれから時々、バンクーバーの明かりは本当に青かったのだろうかと考えました。
街灯が青いなんてあるのだろうか。
そこで三十年まえ社内誌にかいたエッセーを読み返したところ、バンクーバーについた夜のことが書いてありました。
こうです。
「ホテルへ向うバスの中から、キラキラと緑と白に輝くバンクーバーの町を眺めていると、、、」。
矢張り街灯は今のような橙色ではなかった。
空港からダウンタウンまで続くグランビル通りに続く生垣の緑。
橋をわたってダウンタウンに入るとき下に見える木々の緑。
そして当時高層ビルといえば、ホテルバンクーバーとBCハイドロのふたつが目立ち、ホテルの屋根は緑色、ハイドロビルには青緑のロゴマークがついていました。
ビルの緑や白い街灯に照らされた木の緑の印象が「まちの明かりは青かった」になったのでしょう。
最近車のヘッドライトで青いのをみかけるようになりましたが、ああいう光がこの町の街灯に似合う。
これからカナダ人にはそう云います。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロスの踊り子
アメリカ滞在中のことでなにか書き忘れたことはないか、もういちど記憶をたどってみたら、ふたつ思い出しました。
ひとつはディズニーランドで遊んだこと。
スモールワールドの曲がよみがえってくるくらいでさしたることはありません。
もうひとつもさしたることではないし、軽蔑されるかもしれないので省略します。
というと、かえってあらぬ妄想を生み出して危険かなと思い直し、やっぱり書いておきます。
駐在の友人、南加大留学予定の友人とイタリアレストランに行った話を書きましたが、彼らとは夕食だけでなく、週末の一夜、ショーを見たことがあります。
舞台の上で美女が踊ってくれるショー。
当時はオー・カルカッタという全員が裸体で演じるミュージカルがおおきな話題になった頃で、今よりは若干保守的な時代でした。
そういう時代に、しかも勉学の途でその類のショーをみるなどということは、、いや、さしたることではないです。
記憶によみがえってきたのは、次々と舞台に現われる美女のひとり。
黒髪、色白、中肉中背、知的な雰囲気。
とびきりの美女であったから思い出したのではありません。
なんと彼女はエネスコ作曲、ル―マニア狂詩曲第1番にあわせて踊ったのです。
曲は十分くらいの長さですが、とちゅうからテンポが早くなり、黒いブーツだけは脱がずに、舞台せましと動き回るさまに圧倒されました。
一週間後、もう一度見に行こうということになったのですが、どうやっても劇場をみつけることが出来ませんでした。
ただひとり、クラシック音楽で踊った踊り子の人生を見てみたいと思う読者はいませんか。
いま、彼女は五十歳前後のはず。
ここまで書いているうちに、ロスアンゼルスでは黒人だけのミュージカルや、映画ゴッドファーザー、ジーザスクライストスーパースターもみたことを思い出し、ゴッドファーザーを見るとき、十五、六くらいの少年が切符を買わないで映画館のなかに走りこんだ光景もよみがえってきました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
変でないアメリカ人
元教授のあとに出会った、変でない三人のアメリカ人のことを書いておきます。
偶然にもみんな銀行員でした。
バスツアーでのランチ時、同じテーブルに座った三十五歳の男性からもらった名刺をみるとボストンの地方銀行の副社長。
この若さでと驚きましたが、だいぶあとになってから、アメリカの銀行でVice Presidentというのは副社長というより、課長ないし部長という地位だと分かりました。食べるのも話をするのもゆったりしていて、彼のペースにあわせているうちにPもゆっくり考え、ゆっくり話すことができました。
アメリカ人は早口で話すというイメージがあったのですが、全部がそうではないと分かって安心したものです。
ツアーの途中で寄ったカーメルという町は、のちに俳優のクリント・イーストウッドが市長をやる、お伽話にでてくるような綺麗な町です。
その町にぴったりの建物にクロッカー・ナショナル・バンクのサイン。店は閉まっていましたが、日本の銀行にはない造りなので中を覗いていると、支店長さんがでてきて中を案内してくれました。
そんな親切な支店長さんが日本の銀行にもいるのでしょうか。
外観のイメージと違って中は最新の設備がありました。
日本から持ってきた穴あきの五円玉を進呈して、五円と御縁の説明をしたところ、支店長さんはこちらが恐縮するほど喜びました。
飛行機のなかでシャンペンの杯を重ねながら話した隣の紳士はウェルズファーゴ・バンク勤務。
終戦直後、神戸に駐留していた、日本のビールはうまかった、水も酒も抜群だ、日本人はみな良い連中だったと、しみじみ話します。
前のふたりにくらべて、沈んだ感じのアメリカ人でした。
日本が好きになったアメリカ人は幸福にならないという説があるのですが、国際社会のマイナー・プレーヤーである日本に関わっていては、主流になれないということなのでしょう。
世界における日本の重要性が高まるよう頑張らなければいけないという気になります。
この三人をいれて、一ヶ月のアメリカ滞在で会ったアメリカ人の採点をすると、ペケがホノルルの役人、イタリアレストランの酔っ払い客、元教授の三人。
マルがホテルの社長、レストランのピアニスト、プラス三人の銀行員で計五人。
ああ、今になってもうひとり思い出しました。
ロスアンゼルス支店勤務の友人がエレベーターで言葉をかわした男性が日本びいきのひとで、彼は休日をさいてPたちを市内観光に連れて行ってくれました。
そのご色々な国を訪れての結論ですが、アメリカ人の大半は親切です。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
変なアメリカ人・続き
サンフランシスコから出る一泊のバス旅行でヨセミテ国立公園に行きました。
氷が侵食してできた深さ八百メートルの谷ですが、幅が一キロ前後、長さが十キロもあり、谷というよりは盆地の中にいる感じがします。
きれいに整備された心地よい公園です。
高さが百メートル近く、直径が十メートルの巨木、セコイヤもみました。
小学生の頃、写真でみて驚いたものですが、実際に見ると驚きの念は一層大きくなりました。
一年後に一歳ちょっとになったゆうきん`sママも見ることになるのですが、記憶に残っていないでしょう。
小旅行を終えてサンフランシスコに戻ると例の元教授から会いたいという連絡が入っていました。
気が進まなかったのですが、三十分ほどビールを付き合って別れました。
明日はいよいよバンクーバーへ発ちます。
パッキングを終えて、さあ寝るかと思った矢先に元教授から電話がはいりました。
鍵をなくして家の中に入れない、ホテルに戻ってきたので部屋に泊めてくれといいます。
ツインベッドの部屋ですから、泊めてやってもいいかと思ったのがうかつでした。
部屋の椅子にすわって話していた元教授が、お前は良い足をしているなあと言いました。
中学、高校と自転車通学をしたせいでPの足は筋肉隆隆です。
八月末、その夜は蒸し暑かったのでPは半ズボン。
変な雰囲気を感じ、Pの頭が忙しく回転しました。
友達が六本木で云ったのはそういうことであったか、ガールフレンドでなく元警官と一緒にやってきた時になぜ気がつかなかったのだ、自宅の鍵をなくしたというのは嘘だ、こやつはホモだ、弱った、寝るわけにいかない。
元教授をみると年をとっているし、体のつくりもたいしたことない。
よおし、もしも力ずくでくるなら、先ずは鼻を殴る、涙がでて一瞬ひるむ、急所を蹴りあげる、かがんだところを上からぼこぼこ殴る、という中学生の頃に身につけた喧嘩の手順を復習したところで、Pはべらべらと話しだしました。
何を話したかは覚えていません。
とにかく元教授を椅子から立ち上がらせないように気合をこめて朝まで話しつづけました。
これから、取引先の人と会う予定だ、終わって時間があったらまた会おうと云って元教授を部屋から追い出したときは、よく話が続いたものだと我ながら感心しました。
会社の取引先の人とは実際に会いましたが、そのあとは空港に直行、余った時間は一人で過ごしました。
バンク―バー行きの飛行機はウェスタン・エアライン、別名シャンパン・エアラインといいました。
スチュワーデスがにこやかに注いでくれるシャンパンをのんで、気分一新、いよいよ目的地に着きます。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
変なアメリカ人
六本木にある独身寮にいたことがあります。
今の六本木にくらべると、月給三万円から寮費を引いたあとの僅かな小遣いでも月に二〜三度はあそべる静かな盛り場でした。
麻布十番にいきつけの小料理屋があり、ある夜、アメリカ留学の経験がある友人と飲んでいました。
同じカウンターに中年のアメリカ人がいて、自分は立教大学で教えている、一年後にカリフォルニヤ大学バークレー校に復職する、ノーベル賞の受賞者数はバークレーのほうがハーバードより多い、などと話し、サンフランシスコに来たらここに連絡してくれとガールフレンドの住所と電話番号を書いてくれました。
店をでると友人が、気持ちの悪いやつだといいます。
どうしてだと尋ねても詳しく語らず、変なアメリカ人だとつぶやくだけでした。
そういう感じはアメリカにいた経験がないとわからないのだろうなと思いました。
それから三年後、ロスアンゼルスからバンクーバーへ向う途中、サンフランシスコに寄ったので、件のガールフレンドに電話をして教授と連絡がつきました。
友人とともにホテルにやってきた教授に土産の風呂敷をあげると、三人で食事をしようといいます。
教授の友人は警官だったが目下は失業中、自分も大学を首になった、日本はくびにならないから最高の国だなどと、冴えない会話の食事でした。
失業中とはいえ、彼らが誘った食事ですから、彼らが払うか、すくなくとも割り勘にするのが常識ですが、そういう気がまったくなく、Pが払いました。
なるほど友人がいったように変なアメリカ人でした。
そういえば、イラクと戦争をするからといって、日本に130億ドル出させた大統領がいました。
12年後、その息子が同じことをしようとしています。
変なアメリカ人とつきあうとそういうことになります。
元教授の話には続きがあります。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
朝食つきホテルの客
南カリフォルニア大学へ行くことになっている友人が、自分の泊まっているホテルは朝食つきだから便利だというので、ホテルを移りました。
朝、食堂に行ってみるとイタリア人の若者たちが三十人ほどいました。
修学旅行なのでしょう。
もうひとつ集団があり、こちらは六・七十代のシニア―。
これも旅行グループでしょうか。
食事は美味しくなかったので、ホテルをかわらなければよかったと後悔しました。
翌日も若者とシニアーのグループと一緒になりました。
ちょっと美人の女子学生が気になりました。
翌々日、若者グループは出発したらしく、食堂は寂しくなりましたが、シニアーグループはいます。
一週間後Pがロスアンゼルスを去る日も彼らはホテルに居ました。
旅行者ではなく、安ホテルを生活の場としていたのです。
彼らは死ぬまであの朝食を食べ続けるのかと気の毒でした。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
・ホテルの社長に会う
さて次は何を書こうかを考えていたら、長い間忘れていたことを思い出しました。
Pは大学生時代、日曜になると東中野にあるキリスト教会に通っていました。
アメリカ人の牧師がいて、その家族や友人のアメリカ人がくるので彼らと話すのが目的でした。
もちろん日本人もきていて、将来牧師になるという人がいました。
会社に入って五年たち、教会のひととの付き合いはまったくなくなりました。
ところがその牧師になろうとしていた人にロスアンゼルスのホテルでばったり会ったのです。
びっくりしました。
話を聞くと牧師にはならず貿易関係の仕事をしていて、よくそのホテルに泊まるのだそうです。
Pが英語の勉強のため一ヶ月ほど滞在しているというと、ホテルの社長に紹介するから宿泊代を安くしてもらえと勧めます。
社長は会ってくれましたが、ホテル代ははじめから安くなっているのでこれ以上下げることはできないがこれを上げるといって机のひきだしから野球の切符を二枚だしてくれました。
翌日駐在員の友人と一緒にドジャース球場の一塁側の席で華やかな大リーグ野球を堪能したのですが、試合のことより、球場がみえているのにそこになかなか着けなかった光景が記憶に残っています。
牧師にならなかった人の顔はおぼろげに覚えていますが、ホテルの社長さんは思い出せません。
きちんとして、感じのよい社長さんでした。
あのあとPは社長さんにお礼状をだしたのだろうか。教会の人たちはどういう人生を送っているのだろうか。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポケットにぬれた魚をいれてやろうか
ロスアンゼルス支店にはPの同期生が勤めていました。
留学生より給料が多いので大きな家に住み、大きな車にのっています。
同期生がもうひとりいて、彼は秋から南カリフォルニヤ大学にいくことになっている留学生でまだ車を持っていません。
三人とも単身赴任でしたので、夕方になるとドライブがてら食事に行く毎日。
幅の広い道を大きな車でゆっくりと走ると豊かな気分になります。
その日はえびを食べようということになり、高級イタリアレストランに入りました。
白髪の男性が演奏しているグランドピアノの近くのテーブルに案内されました。
ピアノを囲んでちいさなバーカウンターがあり、中年の白人がひとりでウイスキーを飲んでいます。
ちょっとニヒルな雰囲気が漂う彼はPたちに何処から来たのかと尋ねる。
日本だとこたえると、東条英機がどうしたこうしたと云うので、日本人に対して良い感情を抱いていないひとだなと思いました。
ピアニストは、気にするなと云う風にウィンクしました。
やがて大きなえびが金属製の箸と一緒に運ばれてきました。
少し短いし、二本の箸が離れないようにつながっているので変った箸だねと話しながら大皿のえびをそれぞれの皿に移しました。
酔っ払い男が、えびはうまいかと聞きます。
ピアニストがにこやかな表情のまま、あいつのポケットにぬれた魚を入れてやろうかと言いました。
ピアニストの様子からPたちは酔っ払い男に馬鹿にされたらしいと気がつきました。
ポケットにぬれた魚を入れてやろうかという表現はそのとき以来聞いたことがありませんが、その表現とともに洒落たピアニストだったなあと懐かしく思い出します。
いや、あの酔っ払いも憎くはありません。
振り返ってみると、若い日本人が男三人で高級レストランにいる風景はあまり美しくない。
今のPなら彼のようにひとりでバーカウンターに座ることでしょう。
いつの頃からそういう習慣がついたのかを思い出せませんが、今はあのときと同じような箸がでてきても、えびを大皿から移したりせず、もっぱらえびの甲羅を割ることに使っています。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
トイレにドアがない
テレビをみてヒヤリングの勉強をしたあとはロスアンゼルス市立図書館に行きました。

秋からPが行くビジネススクールでは数学、会計、マーケティング、組織など経営学の基礎知識が必須となっていますが、数学をのぞいたすべての科目を勉強したことがなかったのでどういう知識が必要なのかをひとわたり勉強しておこうと思ったわけです。

図書館には必要な本がありました。

そこまでは良かったのですが、問題はトイレです。

大のほうにドアがない。

密室にすると犯罪に使われる恐れがあるから外してあるのでしょうか。

確かに安全ですが、みなさん如何ですか。出来ますか。

Pは生理現象がおきるたびに図書館からホテルに戻りました。

その後ドアのないトイレにお目にかかったことはありませんが、それでもシアトルのデパートのトイレでは、ドアをしめても隙間が開いていて外を歩いている人がよく分かり、落ち着かない思いをしました。

北米では1〜2センチくらい隙間のあるところは珍しくなく、いまや、そういうトイレが平気になりました。
しかしドアがないとなればやっぱりどこか別なところを探すでしょうね。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語が分からない・でもできる

電話交換手の英語が分からなくてがっかりしたのですが、会社が手配してくれた英語学校へ行ってみると易しい。毎日の試験はいつも満点。

う〜ん、英語はできるのだ。留学に必要なTOEFLも高得点だった。そう、Pは英語ができるのです。

しかし交換手の英語が分からなかった。今までのやりかたを続けていては駄目だ。そうと分かったPは英語の学校に行くのをやめて、ホテルの部屋でテレビをみることにしました。

やっぱり駄目です。

なぜかはすぐわかりました。日本語とは違う単語ひとつひとつのアクセント、単語がつながったときのおおげさな抑揚をPの頭がうけつけないのです。

早口で叫ぶように話される音感が不快なのです。

アメリカ人が傲慢だといわれるのは、アメリカ英語の耳障りな響きにも原因があるのでしょう。

昨夜ジョージ・ブッシュ大統領が一般教書という演説をしました。

いまや演説を聞いて理解できるようになったPですが、音感としてはあいかわらず雑音の連続でしかない。(彼のいうことも雑音的なところがありますね。たとえばサダムフセイン大統領がイラク国民を殺していると云いますが、ブッシュもテキサス州知事のときに史上最多の死刑執行をしています。大量破壊武器を持っているのはイラクだけじゃないだろうと云われたらどう応えるのでしょうかね)

そういえば最近はテレビをみていると日本人も叫ぶように、あるいはあえぐように話す人が増えています。

Pより少しお姉さんになる岸恵子という女優さんは長い間日本を離れていたのですが、彼女の話す日本語は優雅です。ご婦人たちは彼女のように、聴いていて気分がよくなるような話しかたをして欲しいなあ。

★2014・9・28追記

PとはPapaの略でオノマのこと。当初はオノマの子供たちに読んで欲しいと思いながらブログを書いていたのでPを使っていた。ブッシュ戦争を契機に斧魔に代わられた。

| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:16 | comments(0) | trackbacks(1) |
北米の家の玄関
車で向ったさきは先輩の住んでいる家でした。

ホテルから三十分ほど、丘の中腹にある先輩の家は、敷地百坪、家五十坪の見当です。前庭が芝生になっていて塀がありません。周りの家も同じようなつくりなので、道路に面して芝生の庭がずっとつながっていて、町並みがゆったりとしています。塀がないので泥棒が心配になるのですが、実は塀があると泥棒は外からみられないのでかえって楽に仕事ができるそうです。

今Pが住んでいる町もほとんどの家は道路と家のあいだに泥棒が隠れられない開放的な構えになっています。二軒に一軒は居間のカーテンもあけっぱなしにして中が見える。なるべくそうしなさいという市のアドバイスがあるのです。

どういう家具をどういう風にならべているかを覗きみしながらの散歩も楽しいものです。
先輩の家にはいって印象的だったのは玄関にはいるとすぐそこが居間になっていることでした。日本の家には玄関そのものの空間がありますが、先輩の家は玄関は居間の一部になっています。そのご北米の家を沢山みることになるのですが、玄関=居間の一部というパターンは珍しくありません。

居間は広々とした感じになるのですが、Pは落ち着けない。今住んでいる家では玄関の近くに椅子や小さな家具をおいたり、屏風で仕切ったりして外から玄関に入ったときの視線をさえぎる工夫をしていますが、いまひとつ満足できないでいます。

そのうち慣れるのかもしれませんが、独立した玄関空間のある家のほうが居住空間として優れているような気がしてなりません。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロスアンゼルスのフリーウェイ
ロスアンゼルス空港からかけた電話は交換手がでたために失敗しましたが、ホテルの電話は先輩に直接つながりました。
先輩は大きな車でホテルにやってきました。
当時たくさん走っていた大きなサイズの車は最近みかけなくなりました。
リンカンコンティネンタル・マークIVという車は幅広いテールにスペヤタイヤを格納するふくらみがついていて、美しいデザインでした。
広い道をゆったりと走る姿はおおきな宇宙船を想わせました。
いつかの日かこの車にのりたいものだと思いましたが、いまは車のサイズが小さくなり、タイヤ格納のふくらみとのバランスが悪くなっているので乗る気がしません。
車もさることながら強烈に印象的だったのがフリーウェイとよばれる片道3車線も4車線もある高速道路でした。
ゆうきんママはPの運転でロスアンゼルスのフリーウェイを走りますが、最初は赤ん坊のとき。
二度目は十二年後、ロスのディズニーランドへ行ったときで、そのときはあらたに生まれた次女、長男も一緒でした。
Pは車の運転をしながら三人の会話を聞いていてびっくりしました。
「おばあちゃんちにいくところみたいだね」「そうだね」などと云ってる。
なるほど東京から千葉へ行く道路はフリーウェイと同じだ、日本の道路もいつのまにかロスのフリーウェイに追いついていたのだと気がつきました。
最初の強烈な印象が残っていたためPの目が曇っているのに反し、子供たちの観察眼は透き通っているのだなあと感心しました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
記憶ちがい
1月19日に書いた「留学するまで・続き」にヘンダーソン&クオンントと書き込んで以来Pの頭の中が変な感じです。
どうも気になるのでさきほど本をさがしてみました。
分かりました。
記憶違いがふたつあった。
ひとつはヘンダーソンではなくヘンダースン。
そしてもう一つは彼らのテキストはミクロ経済学というか、消費者行動とか企業行動を扱っていますが、国の経済政策は扱っていません。
館龍一郎&小宮隆太郎「経済政策の理論」というテキストがあり、ここには財政の章も金融の章もあります。
Pが試験で思い出したのはこれに違いないと思います。
ヘンダースン&クオントも共著のテキストでかつ小宮隆太郎の訳なので間違ったのでしょう。
いずれにせよPが経済学を苦手としていたのがまた分かりました。
ちなみに「経済政策の理論」をみるとインフレについての章はありますが、今関心が高まっているデフレに関する記述がありません。
時代の変遷を感じます。
なお日本にはインフレターゲットが必要だというひとがいますが、Pは違うと考えます。
なぜか、というのを書くと長くなるのでここでは書きません。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
画家・安野光雅さんからのはがき
あかねこさんのHP・絵本サイトにも載っている安野光雅(あんのみつまさ)さんという島根県出身の画家は43歳で絵本を初出版して、そのご三十年、毎年すぐれた作品を発表し続けています。ノーベル絵画賞というのがあれば受賞するヒトだと思います。優れた文章も書いているので画家と括くるのはいけないかもしれません。

その安野さんから絵はがきが届きました。1月20日のことです。オーロラ」というカナダのローカル誌にPが安野さんの本を紹介したことにたいする礼状でした。

そのはがきに安野さんの知人がバンクーバーにいた、と書いてあります。面白いですね。
そのヒトはNHKのディレクターをしていた伊達兼三郎さんといってPも交流があったのです。

赤ちゃんだったゆうきんママも会っています。ゆうきんママ―伊達さん―安野さんというふうにつながっている。

Pが紹介した本は「安野光雅の世界 1974→2001」(平凡社・2000円・雑誌65956−24)。
安野さんの作品70冊の抜粋で、ノーベル賞クラスの絵も密度の濃い文章もいろいろなスタイルで作られているのが分かり、安野さんの世界の広さに感心します。HPをもっているヒトは必見かな。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語が分からない!
ロスアンゼルスに到着しましたが出迎えのヒトはいません。
ロスアンゼルス支店に勤務している先輩から迎えに行ってあげようと連絡があったのですが、到着が日曜日なので迷惑をかけてはいけないと思い、遠慮したのです。
着いたことを連絡しようと思い電話をかけました。
市内通話は5セント、当時の為替レートで15円です。
今は25セント、円高になっていますから30円くらい。
5セントコインを電話機にいれて先輩の家に電話をかけましたが、でてきたのは交換手。
驚いたことに交換手が早口でいう英語が理解できません。
高校のころからカナダ人やアメリカ人とつきあっていて英語での会話には不自由しなかったのですが、なにを言われているのかまったく分からない。
アメリカで話される英語は違う、日本にいたアメリカ人たちは分かりやすいように話してくれていたんだと気が付いたPは慌てて受話器を置きました。
今考えると、先輩の家は空港からだと市内ではなく長距離通話圏だったのです。
だから交換手は5セントでは足りない、コレクトコールを申し込むかというようなことを云ったのでしょう。
それに加えて、アメリカ人やカナダ人は様々な国からの移民が多いので、英語のなまりもいろいろで、日本人より英語が出来ないヒトは沢山います。
今のPなら相手の英語の程度や癖を判断して、分かるまで聞きなおします。
理解できるまで聞きなおそうとすれば大概のアメリカ人、カナダ人はそれに付き合ってくれます。
あの時のPはそんなことをする能力、度胸ともになかった。
ロスアンゼルス空港の公衆電話の前で暗黒の世界に落とされたような気分をかみしめていました。
可哀相。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホノルルの役人は威張っていた
航空券を届けてくれた人がホノルルまではアップグレードになっていますと言ったのですが、当時はなんのことか分からなかった。
今おもいだすと感謝感謝、パンナムのファーストクラスに乗ってホノルルまで行きました。
せっかくのパンナム・ファーストなのに飛行機の中は覚えていません。
その代わりホノルルについてアメリカ入国のときのお役人がヒトを見下さんばかりに、いや、ばかりにではない、ヒトを見下して威張っていたのが記憶に残っています。
Pはそのあと色々な国に行くことになるのですが、入国管理役人の十人に一人は威張っていますね。
Pの友人の何人かが役人になっていますが、やっぱり威張っているのがいます。
役人だけではなく、Pが勤めた日本の会社にも威張りやさんがいて、理由ないのになぜかマジメに威張っていた。
こういうヒトは逆にペコペコして卑屈なときもあるので、はたからみているとおかしいやら、気の毒やらです。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
輝くパンナム・ホノルル経由
普通の日本人にとって海外旅行が夢のまた夢の時代、「兼高かおる世界の旅」という番組がありました。
夢をテレビでかなえてくれる何年も続いた人気番組です。
番組のスポンサーがパンナム、パン・アメリカン航空で、まぶしいくらいに輝いてみえたものです。
Pのアメリカ渡航のために会社が手配してくれたのは、この輝くパンナムの切符。
羽田発、ホノルル経由ロスアンゼルス行きの切符を手にしたとき、Pの世界も輝きました。
パンナムが輝く会社であった、成田空港は影も形もなかった、アメリカへ行くにはホノルルかアンカレッジを経由した、そういう時代でした。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
留学が実現するまで・続き
留学が簡単にできない時代であったと書きましたが、実際には日本にとって節目のような時期でもありました。
経済力はどんどん強くなり、多くの企業が海外での事業展開に力をいれていました。
Pの勤めていた会社もそのころ五番目の海外支店を出したところで、同期の社員も海外に派遣されはじめていました。
それとあいまって会社が海外留学派遣をつくったので、昔から留学したかったPは選抜試験を受けました。
英語のほかに経済の試験があって、「国家経済運営における財政政策と金融政策とについて述べよ」という問題がでました。
学生時代のPは経済学が苦手でしたが、そのため時間をかけて理解するようにしていました。
問題をみたとたんにヘンダーソン&クオント著のテキストが頭の中によみがえり、そのまま書いて提出。
Pをいれて五人が合格しましたが、翌年からの合格者数は二〜三人に減りました。
初めてのことなので会社はいろいろ心配したことでしょう。
五人もおくりこめば一人くらいはなんとか卒業できるだろうなどと話したのではないでしょうか。
留学にあたって期待や不安の念を抱いたのはPだけではなかったというのが今になってよく分かります。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
留学が実現するまで
昨夜はPのカナダ留学が実現するまでのことをふりかえってみました。
今なら日本とカナダの往復は六万円〜十万円。アルバイトをして月に五千円ずつ積み立て、一年で六万円、はいカナダへいってきま〜す、です。
三十年まえは違います。十年貯金したら行けるかなという感じ。
旅行がそのくらいですから留学は一段と難しい。
そういう時代に留学が実現したのは、留学したい!という強い希望があったからです。
強い希望・信念は必ず実現するとPは信じています。
とはいえ、沢山のひとたちの支え、助けがなければ留学は希望だけで終わっていたと思います。
昨夜は色々なひとの顔が浮かんできました。
亡くなったかたもいます。
心の中でひとりひとりにお礼を言いました。
本当は会って言いたいのですが。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
記憶の薄れ
バンクーバーに着いてからの数日について風車の絵を買ったところまでは比較的鮮明に記憶していますが、そのあとが急にあいまいになっています。
YMCAからキャンパスの独身寮へ絵を運び込んだとき、エレベーターで乗り合わせた学生から「凄い絵だ。
あなたが描いたのか」ときかれたことは覚えていますが、その後のことになると強くよみがえってくる風景は飛び飛びになっています。
バンクーバーに馴れたからなのでしょう。
本日はこれだけにして、あしたからバンクーバーへ到着するまでのことを少し書こうかと思います。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 19:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
風車の絵を買う
車で大学と反対の方向に走ってみました。
今回も原則直進、曲がるときは右折です。
どんどん行くとライオンズ・ブリッジという橋にきますがこの橋はラッタさんの車でわたっています。
橋の終わりで北バンクーバーと西バンクーバーとに別れます。
Pは行ったことのない西へ進路をとりましたが、マリンドライブという海岸沿いの道をまっすぐ走り続けると右手に公園があり、そこで野外展覧会をやっています。
車から降りてひとわたり見回しましたが、好みの作品ではありません。
ところが一枚だけ別な画家が描いたらしい青い基調の風車の油絵があって惹かれました。
値段をきくと百ドル、当時の換算レートで三万円。
初任給がそのくらいでしたから、今なら二十万円見当でしょう。
交渉して四ヶ月の分割払いで買いました。
YMCAの殺風景な部屋の壁に立てかけてみるとその絵がますます気に入りました。
二年の留学中、勉強がつらくなると画家の作業姿を想像して自らを奮いたたせたものです。
今はダイニングルームの壁にかかっていますが、反対側の壁にゆうきんのママが描いた作品が二枚あり、これも青が基調なので三枚が良い調和をつくっています。
ゆうきんママの作品の一枚はこのHPお母さんのコーナーにある「sinking mind」です。
ここまで書いてきて、ママは小さい頃から青い絵を見ていたので影響を受けたかもしれないと思いました。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
YMCAに泊まる
ラッタさんたちがPに、ホテルは高いからダウンタウンのYMCAに移れと熱心に勧めます。
ホテル代は会社から実費が支給されるし、食事、宿泊その他なにをするにも会社の体面を考えてしなければいけません(昼食時マクドナルドでハンバーグを食べているところを上司にみつかって、テーブルクロスのあるレストラン以外で食べてはいけないと怒られた先輩がいた、そういう時代でした)。
そんな事を知らないラッタさんたちは、日本はまだまだ貧乏で、従ってPも大変だろうと心配するのでした。
彼らの「善意」をいれてPはYMCAに移りました(会社にはずっと内緒でした)。
共同使用のトイレ、シャワーなどは簡単なつくり、部屋も質素で、後悔したものです。
このYMCAも健在です。
中がどうなっているのか見たいような気もします。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
北バンクーバーでみた夢
Pは高校生のときに宣教師(ジーン・ラッタさん=女性)の家で開かれる英語教室に通っていました。
ラッタさんの妹夫妻が北バンクーバーに住んでおり、たまたまラッタさんが一時帰国でそこに滞在中。
Pは三人との夕食に招かれそのまま一泊しました。
三人は敬虔なクリスチャンで、そうでないPは少々窮屈な思いでしたが、そのせいか奇妙な夢をみました。
誰かがPを呼んでいますが、そのヒトはロバート、ロバート、ロバートとささやくように呼び続けるのです。
Pは知らない別人になっているのでした。
目がさめると明け方ちかくで、部屋の外でフラッフィーという名前の猫がニャー、ニャーと鳴いていました。
もしかしてその家にロバートというひとがいたのだろうかといぶかりました。
そのときはラッタさんたちに尋ねることができませんでした。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:52 | comments(2) | trackbacks(0) |
見知らぬ女性にみつめられる
大学に行ったのはこれから始まる二年間の留学手続きのためでした。
いくつかの窓口に長い列ができています。
近くの列に並んでいるひとに、この列で学生寮の手続きができるかどうかを尋ねました。
その途端別の列に並んでいた女性がふりかえり、驚いたような顔でPをみました。
彼女と一緒に並んでいた父親らしいひとを含め他にPに注意するひとはなく、そのひとだけがPをみつめています。
二十歳前後の白人で、憂いをふくんだ表情に赤みがさしていました。
一〜二分ほどみつめられていました。
Pの声は低音ですが、彼女の知っている人の声に似ていたのでしょうか。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
透き通った色
翌日レンタカーを借りました。
運転免許をとって五年、あまり運転をしていなかったPは地図を片手に…梢吻右折(右側通行なので左折より右折が楽)の組み合わせで目的の大学に着きました。
入り口から大学の建物に至るまでニキロほどの道は紅葉・黄葉が輝いており、それを見たとたん、二年後にここを去るときはつらいだろうなあという寂寥感に襲われました。
日本の紅葉・黄葉にくらべて透き通っているような色は三十年後の今も変わりません。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホテル・ジョージア
三十年まえにPが泊まったのはホテル・ジョージアといいます。
ジョージア通りというダウンタウンの幹線道路にあり、バンクーバーで#2か#3の一流ホテルでしたが、二十年後には外も中も汚ない三流ホテルになってしまい、寂しい限りでした。
それから十年、今は改装をして、また綺麗なホテルに戻っています。
ベスト・テン位に挽回したかなと、ホテルのそばを通ると嬉しくなります。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 18:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
まちの明かりは青かった
バンクーバーに着いたのは夜。
ダウンタウンに入る橋を通るときにバスの窓から町の明かりが見えました。
一ヶ月過ごしてきたロスアンゼルスの明かりに比べて青い光。
北の町に来たと感じたものです。あれから三十年。
町の明かりは橙色になっています。
いつ変わったのかを長年住んでいるカナダ人に尋ねてもわかりません。
本当に青かったのだろうかと考えたりもします。
| おのまのプロフィール | ‘70年 | 12:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
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